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更新:2010年6月29日
2010年度に担当する授業科目
- 京都大学 美学特殊講義(学部・大学院共通)
通年 水曜2限 新館1階 第1講義室
- 京都大学 美学講義(学部)
通年 水曜4限 京都大学大学院文学研究科 新館2階 第3講義室
- 京都大学 美学美術史学演習 Ⅲ (学部)
通年 開講日時は掲示板を参照 京都大学大学院文学研究科 新館2階 第3演習室
美学美術史学専修学部3・4回生による演習発表。
- 京都大学 美学美術史学演習 Ⅲ (大学院)
通年 金曜4限 京都大学大学院文学研究科 新館2階 第3演習室
美学美術史学専修大学院生による演習発表。
- IAMAS 現代思想演習(大学院)
前期 隔週火曜3・4限(13:50〜16:55) 開講日・時間等注意
IAMAS(情報科学芸術大学院大学)における講義。実施日は4月27日、5月11日、6月1日、15日、29日、7月13日、27日です。※ただし、6月15日のみ、2・3・4限(10:35〜16:55)の時間割になります。
- 同志社大学 美学史特講Ⅰ(大学院) 4月29日には現代美術の見学あり(参加任意)。
前期 金曜2限 明徳館3階 M301
- 同志社大学 現代芸術論 Ⅱ
後期 月曜5限
- 京都精華大学 表現領域特講1(大学院)
後期 火曜2限
- 京都市立芸術大学 メディア論2
冬期集中 実施日は追って知らせます。
美学美術史学特殊講義
- 2010/07/21, 2010/07/28 両日とも休講です。祇園祭が過ぎてから授業などするものではありません。これは京都の法律です。書を携え、街に出て学びましょう。ただ、教室も遊ばせておくのはもったいないので、今年度の講義内容には直接関係しないが、7/21は要望のあった映像作品を視ます。7/17には Voice Gallery の「有毒女子」オープニング。7/31は尼崎でトーク。8/6には「生存のエシックス」でレクチュアをします。8/8-14は北京の国際美学会で日本にはいません。他に、夏休み中の催しなど他にもあればこのサイトで告知します。
- 2010/07/14 アルフォンソ・リンギスによる、ニーチェの動物論を扱う予定だったが、思想7月号の「ネオ・サイバネティクス」特集の話になり、機械と動物の連続性を思考するものとしてのサイバネティクス、ウィーナーの『人間の人間的利用』、"Second-order Cybernetics"とは何か、Hainz von Foerster の思想などの話を主にしました。
動物論におけるニーチェの重要性とは何だろうか? まず、直線的な時間ではなく円環的・回帰的な時間について考えること。"Atavism"つまり「先祖かえり」ということ。また、動物の人間化(anthropomorphism)とは反対に、人間の中に(人間のもっとも人間的と思っている徳や理性のただ中に)動物への類似を見いだし、人間もまた進化の(到達点ではなく)途上にある存在、それも人間を超える何者かへの進化の途上にあるという認識。通俗的な「進化論」では、動物から人間が進化したかのように理解されています(講義で説明するように、それはまったくの間違いです)。動物は人間の過去ではなく、むしろ〈未来〉だと、わたしは考えています(今月末の西宮の展覧会での講演「人間の未来としての〈動物〉でもその話をします。)。この論点に関して、ニーチェはおおいに参考になる、というか、強い味方です。しかし、先週は病気で、今週は雑務と出張が続き、正直、準備万端とはとても言えません。リンギスのテキストについての分析は来週に持ち越すことになると思います。 - 2010/07/07 七夕でもあり(?)、京大総合博物館の「X線」企画展示見学に変更しました。
- 2010/06/30 体調不良のため休講にします。KULASIS には告知しましたが、京大以外の聴講者のみなさんにはここで。来週以降の予定は追ってお知らせします。
- 2010/06/23 Matthew Carlarco による「ハイデガーの動物存在論」。まず、ハイデガーの『形而上学の基礎概念』から引用された次のようなテキスト(英訳)が提示される。原文と日本語訳は下の通り。
[...] Die Mensch ist nur ein Stück der Welt, sondern ist Herr und Knecht derselben in der Weise, daß sie "hat". Der Mensch hat Welt. Wie steht es um das übrige Seiende, das auch, wie der Mensch, ein Stück der Welt, die Tiere, Pflanzen, die materiellen Dinge, Steine zum Beispiel? Sind sie im Unterschied von Menschen, der auch die Welt hat, nur Stücke der Welt? Oder hat auch das anders? Wie ist diese Andersheit zu fassen? Wie steht es beim Stein? Hier zeigen sich, wenngleich noch so roh, Unterschiede. Wir halten sie fest durch drei Thesen: 1. der Stein (das Materielle) ist weltlos; 2. das Tier ist weltarm; 3. der Mensch ist weltbildend.
Die Eidechse kommt auf dem erwärmten Stein in der Sonne nicht einfach vor. Sie hat den Stein aufgesucht, pflegt ihn aufzusuchen. Wegverlegt von dort, bleibt sie nicht irgendwo liegen, sie sucht ihn wieder - ob sie ihn wiederfindet ist gleichgültig. Sie sonnt in der Sonne. So sagen wir, obwohl zweifelhaft ist, ob sie sich dabei so verhält wie wir, wenn wir in der Sonne liegen, ob ihr die Sonne als Sonne zugänglich ist, ob ihr die Felsplatte als Felsplatte erfahrbar ist. Aber gleichwohl ist ihr Bezug zur Sonne und zur Wärme anders als der Bezug des in der Sonne vorhandenen und erwärmten Steins. ... Die Felsplatte, darauf die Eidechse legt, ist der Eidechse zwar nicht als Felsplatte gegeben, deren mineralogischer Beschaffenheit sie nachfragen könnte; die Sonne, in der sie sich sonnt, ist ihr zwar nicht als Sonne gegeben, über die sie astrophysikalische Fragen stellen und Antworten geben könnte. Aber ebensowenig ist die Eidechse auch nur neben der Felsplatte und unter anderen Dingen, z.B. auch der Sonne, vorhanden wie ein danebenliegender Stein, sondern sie hat eine eigene Beziehung zu Felsplatte und Sonne und anderem. ... Seine [der Tiere] Art zu sein, die wir das "Leben" nennen, ist nicht zugangslos zu dem, was auch noch neben ihm ist, worunter es als seiendes Lebewesen vorkommt.(Martin Heidegger, Die Grundbegriffe der Metaphysik: Welt - Endlichkeit - Einsamkeit, Gesamtausgabe, Band 29/30, Vittorio Klostermann, F.a.M., pp. 263, 291, 292.)
人は単なる世界の一部ではなく、世界を「持つ」という意味で世界の主人かつ下僕である。人は世界を持つ。では、人と同様世界の一部である他の存在者、動物、植物、物質的なもの、たとえば石についてはどうだろう? 世界を持つ人と違って、それらはたんに世界の一部にすぎないのだろうか? それとも動物もまた世界を持つのだろうか? だとすればどのように? 人と同じようにだろうか、それとも他の仕方で? その〈他性〉はどうしたら理解できるだろう? そして石についてはどうだろうか? 粗っぽい言い方だが、ここには違いが現れている。その区別は、次のような3つのテーゼで言い表すことができる。1. 石(物質)は無世界的である。2. 動物は世界に乏しい。3. 人は世界を形成する。
暖かい石の上で陽を浴びるトカゲは、たんにそこに現れたわけではない。トカゲはこの石を選んだのだし、いつもしているのである。そこから別な場所に移されると、トカゲはそのままではおらず、見つかるかどうかは別として、また石を探そうとする。トカゲは日光浴をしているのだ。私たちはそのように言うが、トカゲがはたして私たちが日光浴をするのと同じようにふるまっているのかどうか、つまりトカゲにとって太陽は太陽として与えられているのかどうか、石は石として経験されているのかどうかは、疑わしい。とはいえ、太陽や暖かさに対してトカゲがもつ関係は、陽なたで暖まっている石の【太陽と暖かさに対する】関係とは異なっている。…トカゲが乗っている岩は、トカゲがその鉱物学的な性質を調べたりできないという意味では、トカゲにとって岩として与えられていないことはたしかである。トカゲが日光浴をしている太陽もまた、トカゲがそれについて天体物理学的な問いを立てたり答えを与えたりできないという意味で、太陽として与えられていないこともたしかである。けれどもまた、トカゲはたんに石の傍らに、そして他のものたとえば太陽の下に、となりにある石と同じように存在しているわけではなく、岩や太陽やその他のものと固有の関係をもっているのである。…私たちが「命」と呼ぶ動物の存在の仕方は、その周囲にあるもの、その中で動物が生きた存在となるものに対して関わりがないわけではないのである。
英訳の引用はここで終わっていますが、この後に次のような箇所が続きます。
Man sagt daher aufgrund dieses Zusammenhangs: das Tier hat seine Umwelt und bewegt sich in ihr. Das Tier ist in seiner Umwelt in der Dauer seines Lebens wie in einem Rohr, das sich nicht erweitert und verengt, eingesperrt. (こうしたことに基づいて、動物はその環世界を持ちその中を動くと言われる。動物は生きている間はその環世界にいるが、それはちょうど、拡がることも狭まることもないパイプの中に閉じ込められているようなものである。) - 2010/06/16 AAH の続き。進化生物学と哲学の関係について考察したあと、哲学における動物論、人間中心主義 anthropocentrism が思想の歴史においてどのように現れまた批判されてきたかを概観します。参考書として Peter Atterton, Matthew Calarco (ed.), Animal Philosophy(2004)を読んでみます。まずは Heidegger の動物存在論から。 【補足】最初に観た映像作品「The Elephant Cage」 ですが、作者は Marcia Vaitsmanです。それから、Make: Ogaki Meetingの紹介をしましたが、Make: Japan の HP にはこの活動を紹介する興味深い動画があります。
- 2010/06/09 デネットの「ゾンビ感覚」問題の続き。そこから、〈美学からみた進化論〉という話をします。「進化」という言葉はインパクトがあるためにいろんな文脈で使われていますが、たいていは誤用で、ダーウィン思想とはまったく関係がない(というかむしろ真逆)の意味で用いられることが多い。生物学的立場からすればそれらは「進化」という言葉の濫用にすぎないのですが、美学的観点からすれば、そうしたあからさまな誤用がなぜ一般化するのかということもまた重要な問題です。つまり「進化」という言葉のもとに人はどんな夢をみようとしているのか?ということですね。これまもた、デネットとは異なった意味で sweet dreams のひとつだと言えるでしょう。
そうした通俗的誤解とは異なったレベルでも、「進化」をめぐってはこれまで様々な奇説・珍説が興亡してきました。しかし、どんなに反常識的で奇矯な学説であり、また客観的証拠に乏しくとも、それをたんに似非科学として切り捨てることはできません。美学的な観点からすれば、科学もまた〈物語〉の一種であり、物語にはそれが人々を引きつけ流布する理由があるからです。
さて今回とりあげるのは、イギリスの放送作家エレイン・モーガン(Elaine_Morgan)の著作を通じて広く知られるようになった水生類人猿説(Auqtic Ape Hypothesis)です。実はこの説の起源はわりと古く、ドイツの解剖学者マックス・ヴェシュテンヘーファーがは1942年に発表したのが最初で、その後1960年に英国の海洋生物学者サー・アリスター・ハーディが同じような仮説を唱えましたが、ほとんど無視されていしまた。それを、プロの生物学者ではない作家のエレイン・モーガンが1970年代以降、フェミニスト的な文脈も取り入れて、盛んに紹介してきたのです。今日も進化生物学者たちからはほとんど無視されています。化石的な証拠がまったくないので相手にされないのは仕方ないともいえますが、職業的な生物学者がこの説を無視する態度には科学的慎重さ以上の何かを感じる時もあります。
この説で興味深いことのひとつは、人類だけでなく象についてもまた水生進化を仮定していることです。たとえば「産婆ゾウ」の存在などです(アントワープ動物園のゾウのサイトで、子象の誕生の付き添うお姉さんゾウ(産婆ゾウ)も見られる動画が公開されたようなのですが、見つからなかった。時間のある人は探してみて。ページはフラマン語だけですが。)。
【補足】
三上晴子「欲望のコード」展(@YCAM)。もうこの種のことにはショックを受けないようにしているつもりだが、ティモシー・リアリーの名前を誰も聞いたこともないのには驚いた。 また、ジョン・リリィ(John Lily)の変性意識体験をモデルにした SF 映画というのは件・ラッセル監督の「アルタードステーツ 未知への挑戦」(Altered States, 1979)のことです。 - 2010/06/02 この日は美学美術史学専修の集中見学期間と重なるので通常の講義は休講となります。6月6日(日)に現代美術・メディアアート見学会を実施しました。
- 2010/05/26 我々は物理主義 physicalism の意味をまだ知らないために、知的な振る舞いをする機械的人工物と「生身」の生物との間には大きな質的な違いがあると思いがちである。機械は考えているように〈みえる〉だけで意識はもたない(というのと同じように、動物は感じているように〈みえる〉だけで実は刺激に反応しているだけである、と考えられた。)あるいは、意識とは、機械的システムのどこを探しても見つからないし、どんなに機械的システムが洗練されても最後に残る〈残余〉である、というような考え方を、Daniel C. Dennett は「甘い夢(sweet dreams)」と呼んで激しく攻撃しています。別に夢をみちゃいけないと言っているのではない。夢を科学や哲学と混同するなと言っている。「コウモリ」のあとは「ゾウ」に転生する予定だったけど、ゾウに行く前に〈機械‐人間‐動物〉を貫く「意識」の問題をもう少し追求します。デネットの言う「ゾンビ」に登場してもらいます。デネットの本(Sweet Dreams: Philosophical Obstacles to a Science of Consciousness, Daniel C. Dennett, 2005)は最近翻訳された(『スウィート・ドリームス』土屋俊・土屋希和子訳、NTT出版、2009年12月)。この本は、「クオリア」という概念の虚妄を暴く点でもたいへん評価できます。ところでゾンビは「動物」と言えるかな? でもね、ぼくはゾンビのことをたくさん書いた(哲学者たちは読んでいるかしらないが)ゾラ・ニール・ハーストン(Zora Neale Hurston, 1891-1960)の作品が好きで、だいたい全部読んでいるのですが、それによればゾンビは「動物」ではないね。たぶん人間の鏡のような存在で、人間よりもちょっと非‐動物な何かかもしれません。
- 2010/05/19 「動物の意識」というテーマをめぐって、ネーゲル論文の続き。「動物の意識」は、自分が動物になった気持ちになれば(少しは)近づけるようなものではない。たとえばネーゲルは言います。"In so far I can imagine this (which is not so far), it tells me only what it would be like for me to behave as a bat behaves. But this is not the question. I want to know what it is like for a bat to be a bat." 主観的領域の実在論は、ある種(たとえば人間)にとっては到達不可能な客観的事実が実在するということも含意する。人間がいなくても世界は在るし、たとえ人類が永遠に存続しても人間にはけっして認識されることのない世界の事実的構造は存在する。"My realism about the subjective domain in all its forms implies a belief in the existence of facts beyond the reach of human concepts." 最後にいわゆる「物理的還元主義」について。ネーゲルによれば物理的還元主義は「誤っている」のではなく、ただその意味を我々は(まだ)理解できないのだという。ちょうど、イオニアの自然哲学者がもしも「物質はエネルギーである」ことを思いついたとしてもその意味が理解できないように。"At present time the status of physicalism is similar to that which the hypothesis that matter is energy would have had if uttered by a pre-Socratic philosopher. We do not have the beginnings of a conception of how it might be true."
- 2010/05/12 この日の夕方16:30より、UCLA のメディア考古学者エルキ・フータモ氏を招いて公開特別授業をしてもらいました。タイトルは(なんと!)「動物からオートマトンまで — メディア文化における非‐人間的知覚の諸相」。この「動物美学」講義のことを言ったら、それにインスパイアされてまったく新しいレクチュアを考えてくれました。そういう事情なので、講義は英語ですが原稿はなくあらかじめ原文も訳も配布することはできませんでしたが、講義後も懇親会でも活発な質問や意見交換がありました。
- 2010/04/28 Thomas Nagel の論文 What is it like to be a Bat?を読んでおいてください。日本語訳はトマス・ネーゲル 永井均訳『コウモリであるとはどのようなことか』(勁草書房)に収録されていますが、かならず英語原文も読んで、「意識の問題」とは何か、そのために他の種の動物の「意識」に言及することは何を意味するのか、を自分なりに考えてみてください。
- 2010/04/21 夏目漱石「永日小品」の中の「猫の墓」。→青空文庫。塩分摂取と文明についての話ではうろ覚えで不正確なことを言いましたが、予防医学の家森幸男氏(金城学院大学生活環境学部教授、京都大学、島根医科大学名誉教授)が最初にマサイ族の調査をしたのは1986年、それからわずか10年後の1997年に3回目の調査を行ったときには、すでに塩を振りかけて食べていたそうです。→「誇り高きマサイ族の豊かな食生活」に簡単な説明があります。Alexander Hammid という名前で知られているチェコ出身の映像作家 Alexandr Hackenschmied (1907-2004)は、1930年代にアメリカに渡り、後に彼のパートナーとなる実験映画作家 Maya Deren と共に実験映画史上有名な作品 Meshes of the Afternoon (1943) を制作しました。今日観た Private Life of a Cat (1947) は、Deren と結婚していた期間、マンハッタンのモートン通りにあるアパートの中で撮影されたものです。詳しくは、Jaroslav Andel による評伝 Alexandr Hackenschmiedにあります。
- 2010/04/14 本講義についての概要説明。
美学講義
- 2010/07/21, 2010/07/28 両日とも休講です。祇園祭が過ぎてから授業などするものではありません。これは京都の法律です。書を携え、街に出て学びましょう。ただ、教室も遊ばせておくのはもったいないので、少なくとも21日は一応教室には行きます。何をするかは、7/17には Voice Gallery の「有毒女子」オープニング。7/31は尼崎でトーク。8/6には「生存のエシックス」でレクチュアをします。8/8-14は北京の国際美学会で日本にはいません。他に、夏休み中の催しなど他にもあればこのサイトで告知します。
- 2010/07/14 アドルノの『美の理論』(Ästhetische Theorie, 1970)を読んでみましょう
Zur Selbstverständnis wurde, daß nichts, was die Kunst betrifft, mehr selbstverständlich ist, weder in ihr noch in ihrem Verhältnis zum Ganzen, nicht einmal ihr Existenzrecht.
Die Wahrheitsmoment am ästhetischen Hedonismus wird dadurch gestützt, daß in der Kunst die Mittel nicht rein im Zweck aufgehen.
- 2010/07/07 先週は病気で倒れ、今週は前日に思わぬ東京出張が入って、なかなか人生というのは思い通りに行かないものだ。しかし、ハイデガー美学の次の話題として、何とかマルクス主義の美学と、アントニオ・グラムシの「文化的ヘゲモニー」の考え方などについて説明し、アドルノを読む文脈を作りたいと思っています。が、体力的にかなり厳しい。。。
- 2010/06/30 体調不良のため休講にします。KULASIS には告知しましたが、京大以外の聴講者のみなさんにはここで。来週以降の予定は追ってお知らせします。
- 2010/06/23 週末沖縄出張があったため、このウェブ上の講義ノートがあまり進んでませんが、、、
ハイデガーの芸術論の2回目。ハイデガーを読む時の基本的心構えとして、「循環」に慣れる、ということがある。ふつう、誰もが納得する定義や前提から出発して論理のステップを積み上げてゆくのが「よい」文章とされるのかもしれませんが、偉大な哲学者の著作の多くは、この基準をまったく満たさない。たしかにスピノザのように定義から出発する哲学者もいますが、その定義たるやとても「誰もが納得する」ようなものではありません。「定義」と言われていても、その定義自体がすでに問題的で容易に飲み込めないのです。(特に1930年代以降の)ハイデガーの文章の場合、論理のステップというのが明確にみえない。ひとつの語の意味にこだわって同じことを反復しているようにみえるかと思うと、とんでもない飛躍をする。いま論じられている話題が何であるのかすら、しばしば明確ではない。さらには論点が先取される、つまり論証すべき帰結が、論証の前提に使われているようにみえる。つまり「循環」です。しかもハイデガーは確信犯的にそれをやる。「循環」を経験し通り抜けることが必要だと言うのです。
とにかく、有名なゴッホの靴の絵について述べるくだりを少し読んでみましょう。「物」についての第3の理解(質料と形相/内容と形式)が本来「道具(das Zeug)」の規定であることから、道具がその本来のあり方を示している例として、ゴッホの絵に言及され、「大地(die Erde)」と「世界(die Welt)」という概念が登場します。
Was geschieht hier? Was ist im Werk am Werk? Van Goghs Gemälde ist die Eröffnung dessen, was das Zeug, das Parr Bauernschule, in Wahrheit ist. Dieses Seiende tritt in die Unverborgenheit seines Seins heraus. Die Unverborgenheit des Seienden nannten die Griechen ἀλήθεια.
What happens here? What is at work in the work? Van Gogh's painting is the disclosure of what the equipment, the pair of peasant shoes, is in truth. This entity emerges into the unconcealedness of its being. The Greeks called the unconcealedness of being aletheia.
ここで何が起こっているのだろう? 作品において作動しているものは何か? ヴァン・ゴッホの絵画は、農民の靴という道具が、真実において何であるのかを開示している。この存在事物は、その存在の隠されぬ状態へと歩み入る。存在事物の隠されぬ状態のことを、ギリシア人たちは「アレーテイア」と呼んでいた。
この靴については有名な論争があります。美術史家の Meyer Shapiro が、これは農民の靴ではなくゴッホ自身の靴であることを論証したからです。詳しくは、たとえばスタンフォード大学のオンライン哲学辞典「ハイデガーの美学」を参照してください。
- 2010/06/16 マルティン・ハイデガーの controversial な思想の概観と、『芸術作品の根源』という芸術学上とっても controversial な論文について話をします。まずオリジナルのテキストですが、Martin Heidegger, "Der Ursprung des Kunstwerkes" (1935/36) で、Holzwegeという論文集に収められています。Vittorio Klostermann の全集では6巻にあります。日本語訳はこれまでに3つあります。初訳が『芸術作品のはじまり』(菊池栄一訳、理想社ハイデッガー選集12巻、1961)、その次が「芸術作品の起源」(茅野良男 ハンス・ブロッカルト訳、創文社ハイデッガー全集5巻『杣道』、1988)、いちばん新しいのが『芸術作品の根源』(関口浩訳、平凡社ライブラリー645、2008)です。英訳はぼくの知る限りひとつしかなく、"The Origin of the Work of Art", in Poetry, Language and Thought (trans. by Albert Hofstadter, 1977)です。(1935年の講演をもとに成立したと思われるこのテキストの底本には実は複雑な事情があります。詳しくは平凡社版の日本語訳の訳者解説を参照してください。)
西洋哲学の本格的な本をまだ読んだことがない人にとっては、なによりもまずタイトルの、日本語では3種類に(「はじまり」、「起源」、「根源」)訳し分けられている"Ursprung" という概念が気になるかもしれません。でもこれについてあらかじめ解説したりはしません。まず読んでみましょう。
哲学を勉強することは、ひとつの新しい言語を学ぶようなことです。哲学者はそれぞれ固有の言語で語ります。哲学者の数だけ異なった言語がある。えらいことですね。英語、ドイツ語、フランス語だけでもたいへんなのに…。まあ、そんなに心配することではありません。ハイデガー語の習得は簡単ではありませんが、ドイツ語そのものの習得よりは簡単です。また、ハイデガーはドイツ語で書いたから、ドイツ語をスラスラ読めれば容易に理解できるのかと言えば、必ずしもそうではありません。母語から遠い言語で書かれたテキストの意味は、いくつかの訳を参照することで輪郭がくっきりしてくることもあります。逆に、母語による読書はみかけの自明性を伴っているので、実は私たちは日本語がいちばん読めていないという側面もあるのです。
では、原文、英訳、邦訳で試しに少し読んでみます(邦訳は既訳を参照しつつ新たに訳してみた)。芸術作品について語るのに、ハイデガーはまず「物とは何か?」と問います。
【原文】Was ist in Wahrheit das Ding, sofern es ein Ding ist? Wenn wir so fragen, wollen wir das Dingsein (die Dingheit) des Dinges kennenlernen. Es gilt, das Dinghafte des Dinges zu erfahren. Dazu müssen wir den Umkreis kennen, in den all jenes Seiende gehört, das wir seit langem mit dem Namen Ding ansprechen.
【英訳】What in truth is the thing, so far as it is a thing? When we inquire in this way, our aim is to come to know the thing-being (thingness) of the thing. The point is to discover the thingly character of the thing. To this end we have to be acquainted with the sphere to which all these entities belong which we have long called by the name of thing.
【邦訳】物が物であるかぎり、本当のところ、物とは何なのか? そのように問うのは、物の物‐存在(物[もの]性)をよく知りたいからだ。 問題は、諸物の物[もの]的側面を経験することである。そのためには、長らく物という名で呼ばれてきた存在事物すべてが属する領域を、知らなければならない。
文章自体はきわめて簡単です。単語も基本的なものばかり。ただし"Dingheit"とか英訳の"thingly"なんて辞書には載っていません。
私たちはふつう「物とは何か?」などと問うことはありません。私たちが問うのはあれこれの物の性質や成り立ち、由来や有用性についてです。そうした認識の根底にある「物」の意味は自明であるか、あるいは空虚だと私たちは考えています(いや、そのように意識的に考えてすらいないと言うべきでしょう)。日常的な思考においては、そもそも「物とは何か」など問題にならない。そこにあえて問いを差し向けるわけです。すると「物」は自明でも空虚でもなく、何かしら不気味な暗がりのようなものとして現れてくる。専門的でも、「最先端」的な事柄でもぜんぜんない、私たちのまったく日常的な思考を支えている、あまりにも基本的な概念の中心部に、底知れない裂開がある! この感触が分かりますか? それを経験するのが「ハイデガー語」を知る第一歩です。(まったくピンと来ないという人は無理に分かろうとしなくてもいい。ハイデガーなんて分からなくても生きていけるし)。
続いて、ハイデガーは(西洋的思考の伝統において)支配的な3つの「物」解釈を提示します。
(1) 「属性を持つ実体」。ハイデガーは古代ギリシアにおいて「τὸ ὑποκείμενον」「ὑπόστασις」「τὰ συμβεβηχότα」という言葉で経験されていた事柄が、ラテン語化されて「subiectum (subject)」「substantia (substance)」「accidens (accidence/attribute)」となったことに注意を促す。そしてこんなことを言うのである。"Das römische Denken übernimmt die griechischen Wörter ohne die entsprechende gleichursprüngliche Erfahrung dessen, was sie sagen, ohne das griechische Wort. Die Bodenlosigkeit des abenländischen Denkens beginnt mit diesem Übersetzen.(ローマ的思考はギリシア語にとって代わったが、そこではギリシア語が言っていたことに対応する同じような根源的経験も、ギリシア的な言葉も失われた。西洋的思考の地盤喪失性は、この翻訳とともに始まった。)このような物解釈は、通俗化されて私たちの日常的な思考に入り込んでもいますが、それでは「物の物的なもの(das Dinghafte der Dinge / the thingly element of things)」をとらえられないとハイデガーは言います。「物の物的なもの」とは何か? それは「自発的でかつ自己充足しているそのあり方(das Eigenwüchsige und Insichruhende / its independent and self-contained character)」である。
【以下の解説未完成…】
(2) 「感覚の対象」としての物。物とは「感じられるもの」(αἰσθητον)であり、
(3)「形を与えられた質料」
- 2010/06/09 「芸術作品」という概念について考えます。まず「作品」というからには、それは自然物ではなくて人工物です。美しい、あるいは珍しい自然の景観を評して「まさに自然が作った芸術作品」などと言います。それは、自然物は芸術作品ではないからです。ではさらに、自然物と人工物との違いは何かと問うならば、それは「意図」の有無です。つまり芸術作品は人工物であるかぎり、ある「意図」のもとに作られているものです。たとえシュルレアリスムの「自動記述」や前衛的ハプニング・パフォーマンスのようなものであっても、そこには「あえて意識的な操作を停止する、制作をあえて偶然にゆだねる」という「意図」が存在する。現代芸術だけではありません。陶芸などもそうです。釉薬を塗って窯に入れますが、焼き上がりの結果は作者が思った通りにはなりません。この「最後の最後が思い通りにならない」という特徴は、実は芸術制作一般の本質的な条件なのです。したがって芸術作品という人工物の制作の根底にあるのは端的な意図ではなくて、「どこかの局面ではあえて意図を捨てる」という、ひとつ上の階層の、しかし明確な「意図」なのです。それはいわば意図の放棄という意図、人為的な制作行為においていちばん大切な部分に自然を呼び込むという意図です。したがって芸術作品にかんして、単純にそれを自然物と対立する人工物である、ということはできません。だから、芸術作品にはどこか自然物のようなところがあり、また自然の産物はどこか芸術作品を反映しているようなところがあります(このテーマは後期にドイツ観念論美学の話をする時に再登場します)。
芸術作品を規定するもうひとつの重要な契機。それはそれが「たんなる技術的制作物」ではないということです。この「たんなる」という言葉の意味を考えてみてください。技術的制作物の存在を支えているのはその「有用性」、つまり何かの役に立つということです。たしかに椅子は「腰掛ける」ためにある。しかしたいていの椅子は、たとえば装飾的的な形態など、「腰掛ける」という機能には直接無関係な要素をもっています。もちろんそれも、家具として眼を楽しませるという「目的」にかなった有用な要素だと言えるでしょう。それでは伝統的な装飾性を廃し、機能が剥き出しになったようなバウハウスの椅子はどうか? モダニズムの家具を見て私たちが面白く感じるのは、純粋な機能が露呈しているような形態それ自体が、逆に形態として美的に面白い、ということなのです。それは「伝統的な美的要素を払拭した形の美」なのです。芸術作品にかんして「有用性」ということを考えるときは、そのように理解しなければなりません。表面的な「役に立つ/立たない」という区別にとらわられるべきではない。たとえば料理とは味覚を満足させ、栄養をとるという「目的」に役立つ技術です。ところが豪華なフランス料理や懐石料理について「もはや料理というより芸術作品」などと言われたりします。「たんなる技術ではない」ということです。そして、たいていの場合これは料理人に対する誉め言葉です。これが誉め言葉として通用するということは、職人よりも芸術家の方が価値が高いという前提が共有されていることを意味します。なぜ、職人としての誇りをもっているはずの料理人は「芸術家」などに喩えられることに腹を立てないのでしょうか?
「芸術作品」にかんして、日本語特有の側面も存在します。それは「芸術」と「アート」という概念の区別です。この区別は当然ながら、英語をはじめとするヨーロッパ系言語においては表示されません。ですがこれは、日本語で美学や芸術論を考える際のデメリットではなくてむしろメリットかもしれません。というのも、この区別は実は現代においては普遍的に存在していて、ひとつは西洋近代的、19世紀市民社会的な、個人の内的自己や世界観の表現としての芸術作品という理解の仕方で、もうひとつは前衛からポストモダンを経過した芸術概念、つまりもはや近代的でも個人中心でもなく、深い内面や思想の表現である必要もなく、ハイカルチュアとサブカルチュアの区別も消滅しているような芸術理解です。英語ではたとえばそれを "Art" と "art" として区別したりしますが、日本語では端的に「芸術」と「アート」と言えばよいので便利です。
「作品」概念が存在論的な意味で問題になるのは「芸術」の方です。「アート」は哲学的な作品概念など必要としていません。「アート」が必要としているのはたんに制度的な「作品」概念です(つまりコンセプチュアルアートにおいて「作品」であるのは具体的なオブジェクトなのか、それとも「コンセプト」なのか? ディジタル・メディアアートにおいて「作品」であるのは個々のインスタレーションなのか、それともプログラムなのか? それが決まらないと「作品」を売買・保管できない。)。
【補足】「美的経験」の話をするのを忘れていた。ポイントは、「美的経験」は「経験一般」から何によって際立っているのか、経験をとりわけ「美的」にするものは何か?という問題です。美的("aesthetic")という言葉はギリシア語の「アイステーシス」(αἴσθησις *最初の「アイ」にアクセントをおいて発音します)に由来しますが、それは「(直接的に)感じること、分かること」というような意味です。ここでたんなる感覚ではなくて、認識を含んでいるという点が重要です。たんなる感覚は、認識と相反することもあります。「大地は静止しており太陽がそのまわりを回っているように見える」ことや「太陽は数十キロくらいの中空をゆっくり移動してゆく火の玉のように見える」のは直接的な実感です。本当は地球が太陽のまわりを回っており、両者の距離は1億5千万キロもある、ということを認識しても、これらの感覚は消失しません。したがってそれらの感覚は、私たちがもっと見慣れた身近なものについての経験を天文学的な事象に適用してしまうことからくる「錯覚」であると言われます。「錯覚(illusion)」という概念に注意してください。ここから「感覚が欺く」というような言い方をする人がいます。ちょうど手品師が観客の眼を「欺く」ように。「欺く」という比喩は、「感覚」それ自体の中に何か私たちを騙そうとするような悪意、あるいは正しい認識を阻むような障害あるいは欠陥が存在しているかのように思わせます。そうすると、この不都合を補うために私たちは感覚を越えた認識(理性的認識)に導かれなければならない、ということになります。けれども、私たちが本当は時速千6百 km(赤道上)で回転する直径1万2千km の球体の上に乗っかっていて、それが時速10万キロで太陽のまわりを回っていることを理性的に認識していても、大地が静止しており夕陽がゆっくりと海に沈んでゆくのは依然として直接的な感覚的経験であり「たんなる錯覚」として廃棄することができません。理性的認識はいくらそれが客観的真理であろうとも、感覚的経験に置き換わることはできないということです。それはなぜか。直接的な感覚的経験は、実はそれ自体の中にある認識を含んでいるからです。それは「身体」に根ざした認識です。身体は環境に埋め込まれています。 - 2010/06/02 この日は美学美術史学専修の集中見学期間と重なるので通常の講義は休講とします。
6月6日(日)に現代美術・メディアアート見学会を実施しました。 - 2010/05/27 前回の講義内容にかんするいくつかの質問に回答します。その後、「美的経験」について話します。「美的経験」とは何か? 美学という学問は、一方ではたしかに「芸術作品」に関わっていますが、それはけっして「芸術作品研究」とイコールではありません。「芸術」という現象があるから、それを対象として「美学」があるのではない。むしろ、(アーティストには申し訳ないが)芸術作品なんてあってもなくても成立するという面があります。この日はその話をします。芸術以外に何が美学の対象かといえばそれは「自然」です。「自然美」ということについて考えたことがありますか? たとえば「自然」(の一部)はなぜ美しいのか? 考えてみるとこれは不思議です。芸術作品とちがって、人間に見てもらうために存在しているわけではないからです。自然はなぜ美しいか? それはカントが『判断力批判』で展開した問題のひとつでした。でも美学史については後期に話しますので、今はこの問題それ自体をとらえることに集中したいと思います。見せようと思って存在しているわけではないものが「美しい」のは、私たちの方にその原因があると考えられます。つまり私たちがそれを「美しい」ものとて経験しているのです。「経験」とはそもそも何でしょうか。そして、世界を合理的に理解し操作することを可能にする「経験」と、美的な「経験」とはどこが違うのか。そのことを話したいと思います。
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質問への回答など。
・「詩は翻訳できるか」という問題。厳密には翻訳できない、なぜなら詩はそれが書かれた言語固有の構造、音やリズムと切り離せないから、という意見がいくつかあった。きわめて真っ当、というか当たり前の意見です。ですがそれだけでは「翻訳」とはいったい何なのか?「翻訳」のもつ作品上のステイタスは何か?が説明できない。翻訳とはたんに「この先に〈詩〉があります」という指標、ポインタのようなものにすぎないのでしょうか?それではあまりに寂しすぎないか?という問題を提起しました。翻訳の問題についてはいずれもっと詳しく扱います。
・「美的価値と倫理的価値の関係」これについては様々な意見があり、その多くはポイントが明確にわからず、またこの問題自体が分からないという意見もあった。比較的理解できる意見のほとんどは、作品に内在的な倫理的価値ではなく、作品が結果としてもたらす倫理的効果(ウェルテルを読んで自殺、尾崎豊を聴いて窓ガラス割り、etc.)についてのものでした。しかし芸術作品が何かはっきりとした現実的行為を誘発するということはむしろ希です。何かを観たり読んだりすることがその人の行動に影響を与えるということ以外にも、芸術作品のもつ倫理的価値というものがあるでしょうか?考えてみてください。
その他、荒川修作と〈前衛[avant-garde]〉の精神について。芸術とはコミュニケーションなのか?という問題。クロード・シャノン(Claude Elwood Shannon, 1916-2001)的な通信モデルに基づいて芸術を考えるとどうなるかということ。(ウィーナー(Norbert Wiener, 1894-1964)の名前も出しましたがサイバネティクス的芸術観までは行けなかった)。 それから「美的経験」とは何か。主観性・経験というのは近代人にとってもっとも原初的なモーメントに思えるが、実は高度な抽象の産物である。歴史的にも、個人発達史的にも、私たちはまず対象的世界から出発し、純粋な主観性というのは後から発見される。そして、美学にとつて芸術作品という主題の拘束を離れた〈自然美〉の問題。これを考えるためには〈自然〉概念の歴史的変化を考慮する必要があります。
次回は「作品」とは何かという問題へと移ってゆく予定。「芸術作品」をめぐる質問やコメントを受け付けます。
- 2010/05/19 Robert Stecker さんの特別講義は参加者が少なかったので、彼が「倫理学と美学」で提起した問題について説明しました。ひとつは「価値」をめぐる議論で、「倫理的価値」と「美的価値」の関係に関する議論。まず「価値」とは何か?ということからはじまって、「美学」と「倫理学」の扱う対象の多重性について。それから「芸術作品の倫理的価値」というトピック。最後に「経験(experience)」と「対象(objects)」の区別について。途中で言及したぼくのエッセイ「おもろい — 興趣の大阪的な表現をめぐって」はこのサイト内にあります。来週は「美的経験とは何か」という話をします。次回(5月26日)の講義までに、この授業で扱ったテーマ(「美的価値」をめぐる問題、芸術作品の「倫理的価値」、そして「経験と対象」について)に関する質問を考えておいてください。
- 2010/05/12 エルキ・フータモさんの紹介。メディア考古学(media archaeology)とは何かということ。ロシア出身のアーティストグループ Komar & Melamid による、The Asian Elephant Art and Conservation Project のことなど。
- 2010/05/12 この授業の後、16:30より UCLA のメディア考古学者エルキ・フータモ氏を招いて公開特別授業をしてもらいますので、講義中にそのための予備的な説明を行います。
- 2010/04/28 美的な知覚の「直接姓=無媒介性」をめぐる話。明くる日の4月29日に有志で現代美術見学会を行いました。京都国立近代美術館の『マイ・フェイバリット』展を観覧し、その後 galerie 16 で KOSUGI+ANDO の個展「穏やかな落下」を見学しました。galerie16で会った森岡祥倫(よしとも)さんは東京造形大学教授で、ぼくと同じメディア文化、メディア芸術の研究者です。数年前、まだぼくが IAMAS にいた頃彼と対談した記録を、このサイト内 e-text の「メディア、大垣、グランドゥール」で読むことができます。(このページは古いままなので別ウィンドウで開きます。リンクは使用せず、読み終わったらウィンドウを閉じてください。)
- 2010/04/21 「芸術」と「アート」。美学・芸術学においてサブカルチュアをどうとらえるかという問題など。まだまだ人数多かったですね。書いてきてもらった「問い」には面白いものもあった。質問はいつでも即回答しますので、講義前に教卓の上に置いておいてください。
- 2010/04/14 この講義の概要について説明しました。あれだけ人数が多いと第3講義室もさびしくないですが、まあ出席はほどほどに。来週も来る人は、「美」あるいは「芸術」について疑問に思うことを短く記述してきてください。
この個人ウェブサイトのURL(http://www.iamas.ac.jp/~yoshioka/)を紹介したら、名前の前の「~」は何ですか?という質問が複数の人からありました。「~」は「チルダ」とか「ニョル」と呼ばれる記号で、UNIX系OSでは、ホームディレクトリを表す文字です。ウェブサーバは UNIX であることが多いので、URLではユーザのホームディレクトリを表す記号として用いられます。講義内容とはぜんぜん関係ないですが、こういう小さな記号に疑問を持つことは大切です。
現代思想演習
- 2010/07/27 最終回です。ジャンジャック・ルソーについて。
このテーマをリクエストした人の意図は分からないが、ルソーに直面することは、「思想の暴力」というテーマに直面することです。ナチズムやスターリニズムに関係した20世紀知識人については、まだその記憶が生々しく感じられるのに対して、フランス革命の恐怖政治と関係する思想家はすでに歴史の中にいる(つまり直接証言できる当事者はとっくに死に絶えている)ので、一見無害なもののように思えるかもしれません。とんでもない! ルソー思想の問題性はハイデガー思想のそれよりもはるかに大きい。「問題性」とは「ヤバさ」ということです。「ヤバい」の両義性(「危ない」と「気持ちよくてクセになりそう」)においてまさにそうなのです。さらに20世紀人とは違い、ルソーはその行動において、ほとんど狂人で犯罪者です。
だが、ルソー思想の「ヤバさ」は、その思想が人々に及ぼした影響というレベルにおいてのみ言えるのではない。より本質的には、「ヤバさ」は思想の内的な構造自体の中にあるのです。たとえば先日の参議院選挙のような時、党派にかかわらず候補者は誰もが、民主主義国家では主権は国民にあると言います。それは当たり前のことであり、誰もが理解すべきことだとされています。けれども、これは自明のことでしょうか? 「主権在民」という思想は、古代ギリシアの民主制にはありません。もちろんそれ以外の前近代的社会にもない。「主権」(souveraineté, sovereignty)というのは最高支配者個人が持つ、独立した権利のことです。それが「人々にある」という恐ろしいことをルソーは言い出した。なぜ恐ろしいかというと、これは集団がまるで一人の人間のように意志を持つということだからです。民主主義の根底にはこんなものすごい論理的飛躍がある。ルソーを読むというのは、こういう事柄と向き合うことなのです。 - 2010/07/13 前回の要望どおり、ジャン・ボードリヤールと、時間があればポール・ヴィリリオの思想について扱います。2人ともその著作にはすでに多くの日本語訳があります。そして2人とも、未来予測的な興味から読んでいくと、商品が記号となった消費社会はもはや制御できない、だから人間的な幸福のために経済を設計することなど不可能だし、また科学技術の進展は必然的に巨大なカタストロフを生み出し、情報技術はそれ自体が脱政治化された権力と化して人間を徹底的に監視・管理する、つまり、もう人類の未来には何の希望もないように思えます。しかし、、、それにしては2人ともやけに元気でノリノリで書いている。この絶望的な世界の様相を記述するのが楽しくて仕方がないようにみえます。それはなぜでしょう?というのがこの授業の最終的テーマだ(思想内容とは異なるこの「思想のグルーヴ感」とでも言うべきものは、マクルーハンからボードレールに流れ込み、その後の仏・英語圏の様々な書き手に転移し、東浩紀のポストモダン論まで達している)。
だがその前に、2人の思想史的文脈を整理してあんまりひどい誤解をしないようにしておかねばならない。ボードリヤールの記号経済学を理解するには、まず伝統的経済学(マルクス主義経済学、近代経済学)がどのような基本概念によって理論を組み立てて来たかを確認しておく必要があります。物と商品、交換、貨幣、生産、消費といった基本概念の理解ですね。それからもうひとつ、ソシュールの言語学の基本理解、(言語)記号とはそれ自体が意味を持つ(たとえば実在の対象を指示 refer するといった機能によって)のではなくて、純然たる「差異の体系」であり、その差異はつねに否定的(つまり「AはAである」ではなく「AはBではない」)にしか定義されえない、ということです。
そのあとは時間も限られているのでリクエストどおり、「シミュラークル」という概念を中心に議論を進めます。
現代ではあらゆるものが「オリジナルなきコピー」としての「シミュラークル」だと言われます。前近代における手作りの模造品から、近代工業の大量生産による商品という形を経由して、シミュラークルはしだいにその姿を現し、ポストモダンの「ハイパーリアル」の世界でその本性を露わにしている。「本物」「自然物」といったものはすべて幻想であり、シミュラークルしかない。これ、ちょっとドーキンスの「利己的な遺伝子」に似ていると思いませんか? 「遺伝子」の観点から見ると個体はただの「情報の乗り物」にすぎなくなり、生命界がすべて逆立ちして見える。それと同様に、シミュレーションの観点からみるとあらゆるものが「シミュラークル」に見える。この、世界が逆立する感覚がボードリヤールのような思想の「本質」です。個々の主張が学説として正しいとか間違ってるということではない。(だからソーカルら科学者たちからはヴィリリオと同様、科学用語の濫用と批難されるが、まさに濫用だから効果的なのです。のように言うと、それでは居直りで、理論が文学と区別できないと反論されるが、それは違う。ポストモダン理論は科学ではないが文学でもないことは、テキストと現実との基本的関係から明らかだ。)
たしかに、ボードリヤールがSimulacra and Simulationにおいてこの概念を提示した1981年(まだ「パソコン通信」もなかった)と「初音ミク」のいる現在では、この概念のもつアクチュアリティーはかなり違う。しかしそれは、ボードリヤールの予言したことが今ではコンピュータ文化として実現した、というような単純なことではありません。ただ、そのように見えてしまうという点は重要です。思想は時代予測ではない。でも、あたかも時代予測であるかのようにみえるのは、「シミュラークル」と言われるとたしかに私たちの現実はすべてが「シミュラークル」で出来ているかのように思えるからです。そしてそれは、SF的近未来よりも日常的な事物の方がそうなのです。『マトリックス』のウォシャウスキー兄弟は、公然と自作はボードリヤールの哲学を元にしたなどと言っているけど、僕には権威付けとしか見えないな。『マトリックス』のような単純なVRディストピアとシミュラークルは直接関係がないように思うし、事実ボードリヤールはまったく興味を示さなかったようだ。『マトリックス』ではリアリティが単純に前提されているから当然だが。ボードリヤールが『エヴァンゲリオン』を観ていたらどう言ったでしょうね。
ヴィリリオについて話す時間はたぶん限られてくると思いますが、技術について考える際の「速度」という概念の重要性、速度が権力であること、速度の極限としてのリアルタイム性、そして「事故」は科学の「作品」であるというとんでもない主張、等々について説明します。ぼくが2003年にディレクターをつとめた「京都ビエンナーレ」では、ヴィリリオのビデオ・インタヴューを上映しました。「京都ビエンナーレ」の全体テーマである「スローネス」に関して、僕が彼に出した3つの質問に答えている。今回も、本人の語りはやはりパワーがあるので、その映像を見せます。 - 2010/06/29 今回もリクエストにより、ジョルジュ・バタイユとそれに関連する思想を扱いますが、先週体調不良のため資料の準備できず。とりあえずバタイユ本人に会っておきましょうか。まず、彼の作品『文学と悪』(1957)についてのインタヴュー、フランス語はとっても聞き取りやすいですが、英語字幕つきもあります。
- 2010/06/15 この回は希望により、カントの批判哲学について話をします。カントとカント哲学については、ウェブ上でもいろんな情報を手に入れることができるでしょうが、残念ながら日本語による全体的な紹介は見つかりません。ウィキペディアのカントの項目はカントの生涯については大ざっぱに説明していますが、思想内容に関する記述は きわめて乏しく、記述内容にもかなり問題があります。日本のカント研究者たちはウェブ上の学問的リソースの改善にはあまり関心を持っていないようです。そういう僕も今のところ余裕がない。ウェブ上で現在もっとも信頼できるカント哲学全体の概観は、スタンフォード大学のウェブ版哲学百科事典 Stanford Encyclopedia of Philosophy にあります。「カント」を表題にもつ項目はたくさんありますが、まずは哲学者カントとその思想についての全体的説明として:
Immanuel Kant (1724–1804) (イマヌエル・カント)
があります。
カントの批判哲学を理解するための思想的文脈として、何をおいてもまず、17世紀における自然科学(特にニュートン物理学)の与えた知的インパクトについて考えなければなりません。カント自身の物理学(18世紀前半の物理学は今の物理学とはかなり違っていて、面白いけど慣れないと戸惑います)、そしてカントの科学観については:
Kant's Philosophy of Science(カントの科学哲学)
を参考にしてください。
一方批判哲学はまた、伝統的な形而上学に対する死刑宣告であるとすら言えます。形而上学そのものの否定ではありません。カントは形而上学を人間理性のもっとも重要な活動だと考えています。ただ、伝統的な形而上学(神的、超越的世界を人間が知りうるとする学説)は、理性的な認識ではなくただの「夢」だと断罪しました。(カントにとって)真の形而上学的認識に至るためには、人間の理性が原理的に何を知ることができ、何を知ることができないかをはっきりさせないといけない、いわばその「仕分け」作業が批判哲学なのです。超感性的な世界についての認識は私たちを強く誘惑します。21世紀の現在でも「霊界」や「死後の世界」について語る人々は後を絶たない。「オカルト」に対してたんに「科学」を対置するだけでは「オカルト」はけっして消滅しないということです。だからカントがどのように形而上学を批判したか、そして理性とはどのようなものだと考えていたかということは、ある意味で現代的な関心事でもあるのです。そこから、カントの形而上学批判と、理性とは何であると考えていたのかを読んでみてください:
Kant's Critique of Metaphysics(カントの形而上学批判)
Kant's Account of Reason(理性についてのカントの説明)
それから、「心=精神」「意識」について。カントの「我」はデカルトの「我思う故に我有り」の「我」とどう違うのか? 個人的な「自己」ではない、「超越論的自己」とは何か? さらに、カントが時間・空間をどのように考えていたか、「直観の形式としての時空間」とは何か? 「物自体」が時間や空間からも独立して存在するという古典的なカント解釈において、何が考えられていたのかということが興味深い。そもそも、「超越論」「超越論的」という語の意味を正確に理解することは(実際多くの議論においては曖昧にされているのですが)、カント理解にとってきわめて重要です。:
Kant's View of the Mind and Consciousness of Self(精神と自己意識についてのカントの考え)
Kant's Views on Space and Time(カントの時空間論)
Kant's Transcendental Arguments(カントの超越論的議論)
批判哲学を大きく動機づけた思想的条件は、啓蒙主義思想自身が立ち至ったひとつの危機意識です。啓蒙主義は宗教や因習から自由な合理的思考を強調しました。しかし個人的意識からスタートする合理的なものの考え方は、物質主義、利己主義、反道徳的行動へと導くことになるではないか? カントは道徳的なもの、道徳の先駆的な形としての宗教的信仰(実際カントは18世紀ドイツの「敬虔主義(pietismus)」の中で育ち、19世紀のいわゆる「無神論者」とか現代の無宗教的人間とはまったく似ていません)について、どのように考えていたのか?:
Kant's Philosophy of Religion(カントの宗教哲学)
Kant's Social and Political Philosophy(カントの社会哲学と政治哲学)
最後に、これは僕自身にとっていちばん関わりが深く関心をもっている領域ですが、カントが晩年において到達した「美学」「目的論」という主題、そしてそうした主題を考える際に必要不可欠な人間の認識能力である「判断力」について:
te Kant's Aesthetics and Teleology(カントの美学と目的論)
Kant's Theory of Judgment(カントの判断力批判)
たくさんあげましたが、自分が少しでも引っかかる問題に関係する箇所を、できるだけ読んでおいてください。 - 2010/06/01 この回は希望により、人工知能の哲学について考えます。
問題提起 In 1965, Herbert Simon, one of the pioneers in the new science of artificial intelligence, predicted that machines would be capable, within twenty years, of doing any work that man can do. Over thirty years later, there still seems to be no chance that this prediction will be fulfilled. My question is: Is this a problem in principle of artificial intelligence, or is it a matter of more time and more money? I'm interested in philosophical issues which lie behind this question. For whichever way we answer the question, it seems philosophical questions about the nature of mind and thought are raised. To say that artificial intelligence could, with more time and more money, eventually produce a thinking machine, is to be committed to the idea that, in some sense, thinking is a mechanical process. Alternatively, to say that artificial intelligence could never produce a thinking machine is to be committed to the idea that there is more to thinking than a mere mechanical activity. [...]
"intellectual Luddism"とは? "Luddism" < "Luddite" (=a member of any of the bands of English workers who destroyed machinery, esp. in cotton and woolen mills, that they believed was threatening their jobs (1811–16).)
思考は機械的過程か? To begin with, why would anyone think that a machine could 'think,' why does this question arise and why do people think it important. I think it is useful to put this question in the context of the history of Western science and the history of philosophical concept of mind. For the main motivation of the idea that a machine can think is the idea that human beings, and therefore the human mind, is just biological machines. So, if the mind is a machine, its principles can, in principle, be understood, and replicated, given adequate technology. [...]
近代科学的世界観 ガリレオ、フランシス・ベーコン、デカルト、ニュートン
古代‐中世的説明(有機体的) vs 近代的説明(機械論的)
「コンピュータ」とは何か?を定義する
チューリング機械 Could any computer ever think? In 1950, Alan Turing published an influential paper called "Computing machinery and intelligence," which addresses this question. Turing asked the question: Can a machine think? Finding this question too vague, he proposed replacing it with the question: under what circumstances would a machine mistaken for a real thinking person? [...]
"Knowing that"と"knowing how"の区別。身体性の関与。 ... The reason computers cannot think, is because thinking requires abilities that computers, by their very nature, can never have. Computer have to obey rules, but thinking can never be captured by a system of rules, no matter how complex. Thinking requires rather an active engagement life, participation in a culture, and know-how, the thought that can never be formalized by rules. The dominant idea here is that thinking requires common sense knowledge, and common sense knowledge cannot be represented as a system of rules and representations. The reason for this is that common sense knowledge is, or depend upon, a kind of know-how. Philosophers distinguish between knowing that something in the case and knowing how to do something. The first kind of knowledge is a matter of knowing facts, a sort of thing which can be written in books, for example, that Sophia is the capital of Bulgaria, while the second is a matter of having skills or abilities, for example, being able to ride a bicycle. [...]
Hubert Dreyfus の AI 批判 According to Hubert Dreyfus, a prominent American philosopher who, under the influence of Wittgenstein and Heidegger, has defended this approach. Getting the hang of it is what you do when you have general intelligence, too. Knowing what the chair is not a matter of knowing the definition of the word "chair." It also essentially involves knowing what to do with chairs: how to sit on them, get up from them, be able to tell which objects in the room are chairs, what sort of thing can be used as chairs when there are no chairs around. That is, the knowledge presupposes the repertoire of bodily skills which may well be indefinitely large, since there seems to be indefinitely large variety of chairs and successful ways to sit on them. [...]
- 2010/05/11 対話中、"Regan"とあるのは、アメリカの哲学者 Tom Regan のことで、"Singer"と言っているのは『動物の解放』を書いたオーストラリアの哲学者 Peter Singer のことです。その他重要なキーワードとして、"Contractarian position"、"speciesism"、"stringent duty"など。最初のやりとりをちょっと書き出してみると、
Introduction: "Some people find it easier to follow the details of the philosophical arguments back and fourth, when they can understand it as a debate between two people. Indeed, the oldest philosophy we have in the Western tradition, Plato's, was all written in the form of dialogues. [....]"
Pro-Regan: "My position is really very simple. I argue that all the animals that we exploit for food, experiment and sport and so on, have a right not to be treated that way, just as we do. We have a right not to be used as a mere resource for others, because we are experiencing 'subjects-of-a-life. [...]"
Anti-Regan: "And I think that this is just an incoherent use of the concept of a 'right.' You can no more say that animals have rights than the works of art do. Anything that has a right has to be the kind of thing that can understand contracts and agreements, and what having a right involves. [...]"
次回は人工知能の哲学について。Artificial Intelligenceを何度も聞いて内容を理解するようにしてください。 - 2010/04/27 この講義のイントロダクションと、最初の課題の提示。次回(5月11日)までに、本日紹介した Pro- and Anti-Regan Debate を何度も聞いて、そこで議論されている内容について、何か言えるようにしておいてください。
美学史特講Ⅰ
- 2010/06/25 テキスト403頁から
Aesthetic Judgement and a Philosophical Claim(美的判断と哲学の主張)
日常言語哲学に躓いてしまうのも無理はないもうひとつの理由は、この哲学の特徴として「われわれ」が言うこと、言おうとしていることは何か、またそうできないことは何かか、あるいはそうすべきことは何かに訴えるという点にある。これが無理のない理由であるのは、それが奇妙とは言わないまでも、この哲学独特の訴えであり、それに基づく哲学者たちは彼ら自身そのことを探究しようとしているだろうと思えるからである。わたしが言いたいのは、美的判断はこれらの哲学者たちが導入したような主張のモデルとなること、またご承知のように美的議論が結論を欠いていることは、非合理性を示すものではなくて、それが有し必要としている合理性を示しているということである。
ヒュームが、常に立派な出発点となってくれる。『趣味の基準について』という彼のエッセイのまん中あたりで著者は、趣味の基準を形作るべき批評家にとって必要不可欠と言われる趣味の「繊細さ」を示すものとして、『ドン・キホーテ』からあるお話を引用している。
ちゃんとワケがありますんで、とサンチョはご立派な鼻の従者に向かって言う、私がワインに一家言あるということにはね。これはまあ、わが家に代々伝わる才能とでも申しましょうか。というのも、ふたりの親類があるとき、極上の、古くてヴィンテージものと噂されるひと樽のワインについて、意見を求められたことがあるんです。彼らのひとりが一口味わって、考えめぐらした後に言うには、このワインはいいが、自分の嗅ぎ分けた皮の匂いがなければなぁ、と。もうひとりも、同じように慎重に吟味して、ワインは旨いと判断したのですが、ただ間違えようもない鉄のような味が残っている、と言う。こんな判定を下して、ふたりがどんなに笑われたかご想像できますまい。でも、最後に笑ったのは誰か? 樽を飲み干してみると、その底には革紐のついた古い鍵が出てきたんでさぁ。
何よりまず、ここでは身振りの見事な演劇性の方が、その事実としての決定性に勝っている。言うなればいささかドンキホーテ的だ。というのも、味はするがその正体がなかったり、モノがあるのに味がしなかったかもしれないからである。第二に、より重要なことだが、この身振りは批評家の努力と、批評家が希求するような立証に、誤った表現を与えている。そこでは、趣味を言い表すことと、それについて説明する訓練とが切り離されているのである。けれども、批評家による趣味の表明を他の人のそれから区別するのはひとえに、批評家はその反応の根拠となる革紐付きの鍵を自分で作り出す能力があるという点だ。そして批評家が立証されるのは、それが樽の中にある、あるいはあったと指摘することからではなく、私たちにもそれがあることを味わわせることによる。サンチョの祖先は、いずれの場合も慎重に熟慮してから良いワインだという判断をしたとサンチョは語るが、その熟慮がどんなものであったのかも、良いワインだという彼らの判断が立証されたのかどうかも、私たちには教えてくれない。ヒュームの論文は、わたしの考えでは、まさにそうした問いを探究しようとするものだが、真の批評家に眼を向けそれを批評家気取りの人から見分けるのはご承知のように困難なので、ヒュームは批評家について、彼や他の人が芸術そのものについて言うことを繰り返す。つまり、真の批評家とは貴重な存在であり、個々の場合には我々は彼の功績に同意しないかもしれないが、長い眼でみればその中には、「普遍的な気分によって、他の人々よりも優れていると認められるであろう」人々がいる。しかしこれは批評家の価値を趣味の歴史の手に委ねるとということに思える。一方私たちにとって批評家が貴重なのは、そうした歴史を自分の材料のひとつにしうること、趣味の歴史はそれだけでは、人々の評判ということ以外何も証明しないことを知っているからである。芸術と文化に対する彼の評価は、彼がその趣味に同意する — そうすればその意見を美術市場に投資するのに利用できるだろうが — ことを意味するのではなくて、われわれの趣味がたまたまどんなものであれ、 - 2010/06/18 次はテキスト401頁の「The second problem in aesthetics ....」 から
- 2010/06/11 テキスト400頁から
¶14
この点において、比喩的言語のいくつかのモードにおいては、ある言語表現が何を意味しているかをけっして言うことができない、少なくともそれまで知られていた馴染みのある、慣習化された言い方では言いかえことができないという考えに、より内容を与えることできるだろう。それは、それらのモードがまったくの文字通りだからではなくて、そこにはいわば説明の余地があるのだが、私たちはそれに入っていけないということなのである。そうした言語表現にかんしては、次のように言うのが正しい。私はそれがどういう意味か分かっているが、言うことはできない、と。そしてもはやこのことは、メタファーについて言われた場合のように、それが何を意味するか知らないことを暗示するわけではない。あるいは暗示するとしても、そうなのかどうか確信できないのである。
¶15
そうした言語使用の実例は、特定の種類の詩、たとえば象徴主義、シュルレアリスム、イマジスム(写象主義)において典型的に生じていると思う。そうした用例は、ハート・クレインの次のような一行「心が雀の翼で払われる 'The mind is brushed by sparrow wings.'」(他でもない、ウィンターズの論文に引用されている)や、ウォレス・スティーヴンスの「日曜の朝 Sunday Morning」における「ひとつの静寂が、水中の灯の間で暗さを増してゆく ' as a calm darkens among water-lights'」のような一行の中に現れていると思われる。これらの詩句を言い換えること、その意味を説明すること、それを語ること、その思想を別なやり方で述べること — それらはすべて、問題外となる。言えることはただ、ある感情が同胞の精神によって口にされたということ、もし誰かが分からないなら、その人は同じ世界にいない、あるいはそれが肌に合わないということだ。つまりこれらの詩は、親密さの試金石となるのである。さもなければ、問題になっている詩が自然な表現に思えるような、特定の日や夜、場所やムードや身振りについて、がんばって多少とも詳しく描写するということになってしまうだろう。
¶16
これぞまさに、そうした言語使用のいくつかのバリエーションを有益な仕方で区別したウィンターズが、理性を擁護して疑い嫌ったことである。その際彼はまた、これは言語の欠陥ではなくて、言語のある特定の用法の失敗であるという答えに対しても、言うべきことを持っている。少なくとも、彼が「表現的(あるいは模倣的)形式の詭弁」という言い方で退けようとしているのはこの種の答えであり、そうすることは正しいとわたしは思う。この詭弁の例として彼は「ホイットマンはユルい詩を書くことで、アメリカというユルい国を表現しようとした」とか「ジョイス氏はみずからの叙述形式を破壊することで、崩壊を表現しようと[企てた]」などをあげる。疑いなく時々聞かれるこの種の詭弁に名前をつけることは役に立つ。しかし、ホイットマンやジョイスが何を表現しようとしていたかについての彼の記述、そして彼らがなぜそのような表現方法をとったかについての説明は、いささか性急に思える。
¶17
ウィンターズから離れる前に、 ¶18
¶19
美学の第二の問題は、なおいっそう手早く大まかに述べられねばならない。
¶20
「無調」(本論の意図からそれを「十二音」とは区別しない)と呼ばれるような音楽は、本当に調性を持っていないのだろうか? 私が言おうとすることの - 2010/06/04 この日は出張のため休講にします。
6月6日(日)に現代美術・メディアアート見学会を実施しました。 - 2010/05/28
テキスト399頁 ¶12 "Two points now emerge: ..."からはじめます。その前の箇所: ¶11:
さて、「ジュリエットは太陽だ」と誰かが言うときそれは何を意味しているのかと私が尋ねられたとしよう。ここでも私は、はっきりした別々の答えができる。ここでも私は、尋ねられたことに同じように驚くことはないが、しかしその意味を別な言い方で述べようともしない。それが、メタファーは言い換えられないという意見、メタファーの意味はまさにそれが使用している言葉に限られるという意見における真理のすべてである。(それに付加しても何も付け加わらない。【その言葉】以外のどこに、この文脈において、意味が閉じ込められている、あるいは意味があると想像できるだろう?)あるいは私は、「ロメオが言いたいのはジュリエットが自分の世界を暖かくし、一日は彼女と共に始まり、彼女の与える慈愛の中でのみ自分は生きていけるということなのだ」などと言うかも知れない。そしてこの宣言からは、他の恋人たちが愛の徴として使う「月」というのは、たんに太陽の光を反射するだけのものであり、比較すれば死んでいるも同然なのだということも読み取れる、等々と。ひと言でいえば私は言い換えているのである。さらに、もし私がこの形の説明を与えることができなかったら、それは私がその意味を知らないと考えられる十分な理由、完全な理由となるのである。メタファーは言い換えられる。(そしてもしそれが本当なら、それは同語反復的である。)クローチェは言い換えの可能性を否定したが、少なくともメタファーなど存在しないと断言するだけの気骨をもっていた。 - 2010/05/21
この日は Wittgenstein 思想の説明、20世紀初頭のウィーンという場所、論理実証主義、『論理哲学論考(Tractatus Logico-Philosophicus)』という本について、そして後期の思想、日常言語学派(Ordinary Language School)、「言語ゲーム(language games)」という考え方について話をしました。 - 2010/05/14
¶07:
これは哲学において、驚くほど頻繁に起こる種類のことである。私たちは絶対性(単純に物理的な類のものであることが多いが)への要求をある概念に押しつけ、そうしておいて、この概念が通常はその要求に合うようには使われていないことが分かると、私たちはこの不一致ができるだけなくなるように取り繕うのである。次のような、よく知られたパターンを取り上げてみよう。私たちは本当は物質的対しようを見ておらず、それらを間接的に見ているだけである。また、私たちはいかなる経験的命題についても確信を持つことはできず、たんに実際上確信しているだけである。さらに、私たちは他人がどう感じているかを知ることはできず、それを推論できるだけである。ウィトゲンシュタインのきわめて偉大な業績のひとつは、私の思うには、このパターンがいかにいつも哲学のお決まりの特徴であるかということを示した点にある。つまりれが、彼の診断が説明しようとしたこと(「我々は何かがどうあらねばならないかについて、特定のイメージを持っている。」「言語は空回りしていて、役に立たない。その日常的な言語ゲームから離れて使用されている。」)彼の診断がそれ自体満足できるものかどうかは、また別な問題である。あまり満足はできないだろう、というのも、もしその現象が彼が示そうとしたように一般的なものなら、その説明は彼が描いたものよりもはるかに明確で完全なものとなるだろうからである。
¶08:
ここまでは、しかしながら、真理である。つまり、「意味を与える」「言い換えをする」「何か(あるいは誰かが言ったこと)がどういう意味かを正確に言う」等々といった言い方を、もしもそれらが用いられる日常の文脈(「言語ゲーム」)に置いてみるなら、自分がそれらのことを本当はやっていないのではないかと心配したりしないことが分かるだろう。そうしたことが、まさにそれらのことをやることが本当は何であるのか、ということなのである。ただ、こうした落ち着きは誰かがそれについて哲学しはじめるとたちまち終わってしまう。私は何もその誰かを止めたいと思っているのではない。ただ、彼がそこでやっていることは何なのか、なぜよりによってそうした道に進むのかが知りたいだけなのである。 - 2010/05/07
Two Problems of Aesthetics
¶01:
まず最初に、純然たる言葉の問題からはじめよう。それは、ひとつの詩が、あるいはより控えめな言い方をするなら、ひとつの隠喩が、言い換えられるかどうかという論争である。クリアンス・ブルックスは、その著書『鍛え抜かれた壺 ― 近代詩の構造』において、「言い換えという異端信仰」というタイトルによって、この問題にもってこいの表現を与えた。すなわちそれは、「詩は何らかの『陳述』を構成する【詩は何かを言っている】」という信仰、そして「批評に我々がみる困難のほとんどがそこから発している」とする信仰である。
¶02:(ブルックスの引用)
本当のところ、[詩が言っていることを]そのように定式化する言い方はすべて、詩の核心に向かうのではなく、むしろそこから眼を逸らさせることになる。詩の「散文的意味」とは、詩という素材がそこ乗っかかっている棚みたいなものではないし、それは詩の「内的」構造を表現するものでもない。(182頁) 私たちは言い換えを目印として、手軽な参照の道具として用いるのはまったく適切なことだが、その時には自分が何をしているのか知っている必要がある。自分が何をしているか知っていること、そして言い換えとは詩の本質を構成する本当の核心的な意味ではないことを端的に理解していることは、きわめて重要なのである。(180頁)
¶03:
言い換えが詩の本当の核心、本質、本質的構造、あるいは内的または実在的構造ではないということを簡単に理解するのは難しいかもしれない。これらのどのひとつ、あるいはそのすべてが何であるのかを述べるだけでも、少なからぬ哲学を必要とするのであるから、それらを理解しようとする時にも同様の困難に直面するだろう。詩の本質、核心、構造、その他もろもろとは詩の言い換えであるときっぱり言い切ってしまうような人などいそうにもない。おそらく言われてきたことは、詩とは文体という装飾を用いるもの、特別な詩の言葉を必要とするということである。あるいは、ある人が詩の意味すること、意味すべきであることを述べると、他の人はそれを見て哲学的な発作にかられ、これは詩の本質を歪曲していると言うのである。そうするとブルックスのお告げで批難されている人物は、罪を逃れようとして、自分で思ってもいないことを口にしていると感じつつ、「言い換え」はもちろん詩と同じものでない、詩とは言い換えられる内容以上のものです、そんなことは充分に分かっていますと答えるのである。これが、アイヴァー・ウィンター【1900-1968, アメリカの文芸批評家】の言葉であり、ブルックス教授は彼の著作を「言い換えという異端信仰の、おそらくもっとも尊重すべき実例[となっている]」(p. 183頁)*5として用いている。そのようにして、議論は延々と続くのである。ここには、誤った問題の進め方があるが、だからといってそれを正すのが容易だと言うつもりはない。
¶04:
このことをはっきり示す徴候のひとつは、自分が何をしているのか知っているなら言い換えには問題はないという、ブルックスが繰り返す容認の言葉である。それはちょうど、批評はもちろん、分をわきまえていれば問題はないと言っているようなもので、当たり前のことである。しかしとりわけ、ワーズワースの頌歌『(幼年期の思い出より、不死の)暗示』冒頭の連を読んで、「…最初に詩人は、何かを失ったと言っている」(ブルックス、119頁)と言う批評家に、どうしたら同意できるだろうか? その連のどこを探しても、「何かを失った」という表現は見あたらない。そういうと批評家は気を悪くして ― 当然だが ― こう答えるだろう。うん、たしかに実際にそう言ってはいないのだが、でもそういう意味なんですよ、暗示されているのです。そういう意味ではないとおっしゃりたいのですか? そう、もちろんそういう意味ではないと私たちは考えている。しかしその際批評家は、詩が意味することを彼が言うとき、自分が何をしているのかについての「理論」を持っているので、みずからの詩の読解に補足説明を加えて、詩が意味するものを自分が言うときには、それは詩がまさに意味していることをそのまま言っているではなく、「その意味を指し示している、いやむしろ、意味の在処を指し示しているだけなのだ」と付け加えるだろう。けれども、この最後の言い方ですら彼には十分謙虚なものとは思えず、彼は脚注の中で、彼自身の分析は「せいぜい詩を粗っぽく近似した物」(p. 189頁)だと述べる。ここまで言われるともうガマンできなくなって、しかし言い換えは詩が言っていることを言うのであって、「近似した」言い換えなどはたんに下手くそな言い換えに他ならない、もっと努力し、もっと感受性があれば、まさに詩が言っていることをありまままに言えるのではないか、と叫び出すかもしれない。それに対する批評家の答えはおそらく、「いや、その頌歌が意味することを正確に言うことはできますよ」と言い、頌歌を声に出して読みあげることだろう。
¶05:
こうした自滅的な雰囲気から脱する道、満足のいく答えに到達する道はないのだろうか? このようなやりとりの中で、両者の話がすれ違ってしまう不愉快な感覚を引き起こしているものは何であるのか、分かるだろうか? 両者とも相手が何を言っているのかは確かにわかっているのだが、どちらも相手が見落としている事実をほんのわずかでも指摘してはいないのである。
¶06:
【この部分、少し待ってください】
- 2010/04/23 は出張のため休み、その次の2010/04/30 も同志社の学年暦では休日になっており、2週間お休みになります。4/29(木)の見学会は、告知が直前になったためか同志社からの参加者はなく、残念でした。5月5日には京都芸術センターで座談会をしますので、センターを見物がてら来てください。
- 2010/04/16 今日読んだテキストの訳例です。まだ不完全な箇所ありますが直していきます。
次回は p.397 "Two Problems of Aesthetics"から。
¶01:
「時代精神」を位置づけることは、存在論的にも経験的にも容易ではない。そして創造の努力はその時代を表現するはずだ ― なぜならそれは起こるべくして起こるから、あるいは、新たな努力が新たな時代を創造しうるから ― などと言うのは怠惰なことである。とはいえ、彫刻の様式が継承されることを考えながら美術史学者が「あらゆる時代にあらゆることが可能であるわけではない」と言う時、それが何を意味しているのかは分かる。そしてそれは誰にとっても、またどんな哲学にとっても同様に真理である。しかしそうなると、それが起こるまで何が可能かはけっして確信できないことになる。そして起こる時には、革命のような感覚が産み出される ― たとえ、ある人にとっての解決が別な人にとっては問題であることも分かっているとしてもである。
¶02:
ウィトゲンシュタインは、彼の後期の方法が哲学において予見する革命的な断絶と、それが美学および倫理学における方法に対して持つ関係という両方の感覚を表明した。以下において私は、そうした感覚あるいは主張を理解するにはどうすればよいかを示した。私はそれらがウィトゲンシュタインの後期哲学を全体として理解するためには必要不可欠であると考えている。最初の部分では、美学における2つの問題の輪郭を示すが、その両者とも、ウィトゲンシュタイン的手続きの可能性に従うものであると同時に、その手続きを解明するように思える。結論となる部分では、美学的と認められるある種の判断と、「私たちは日常何を言っているのか」を言い表そうとするウィトゲンシュタイン ― そして日常言語学派の哲学者たち一般 ― の要求との間には類似性があるといっている。
¶03:
私が書いたこと、そしておそらく私の書き方は、哲学が時々見舞われる方法の危機の中にあるという感覚に由来するものである。その感覚を明確に示すのは、方法が内容を決めるのではないかという、私に限らないひとつの懸念である。たとえば、分析哲学に知的にコミットすることによって、そもそもそれが人を哲学にもたらしたかもしれない、人間文化のより広い、伝統的な諸問題から関心を逸らされてしまう。そうであっても、方法か異質な関心のどちらかを捨てるということはできないのである。
¶04:
いろいろな方法を自由に併用するというのも、この問題に対するひとつの解決である。別な解決は、自分がいちばん親しんでいる方法の内部に、さらなる自由と可能性を見いだすことである。ここでは私は後者の方に傾いており、それによって哲学それ自身をもうひとつの問題と考えたいと思っている。特に、哲学 ― ウィトゲンシュタイン派、あるいは日常言語学派 ― が用いる手段を、美学にとって重要なひとつの問題にしたいのである。
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