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更新:2010年10月08日


2010年度後期に担当する授業科目(演習を除く)

  • 同志社大学 現代芸術論 Ⅱ    

    後期 月曜5限 新町校舎R208教室

  • 京都精華大学 表現領域特講1(大学院)    

    後期 火曜2限 大学院演習室2

  • 京都大学 美学特殊講義(学部・大学院共通)   

    通年 水曜2限 新館1階 第1講義室

  • 京都大学 美学講義(学部) 

    通年 水曜4限 京都大学大学院文学研究科 新館2階 第3講義室

  • 京都大学 文学部英語B(学部・全学共通科目) 

    通年 水曜4限 京都大学大学院文学研究科 新館1階 第1講義室

  • 京都市立芸術大学 メディア論2    

    冬期集中 2011年1月5〜7日

美学美術史学特殊講義

  • しばらくお待ちください。

美学講義

  • 2010年10月20日
    カント『判断力批判』の「第1序論」 Ⅳ とⅤ の冒頭を読んでみる。【 】内は、内容を理解するためにかなり思いきった解釈を加えた訳です。より直訳的な解釈については既存の訳文を参照してください。

    Ⅳ Von der Erfahrung als einem System für Urteilskraft
    Wir haben in der Kritik der reinen Vernunft gesehen, daß die gasamte Nature als der Inbegriff aller Gegenstände der Erfahrung, ein System nach transzendentalen Gesetzen, nämlich solchen, die der Verstand selbst a priori gibt (für Erscheinungen nämlich, sofern sie, in einem Bewußtsein verbunden, Erfahrungen ausmachen sollen), ausmache.

    【純粋理性の批判において、人が経験するすべてのもののまとまりとしての自然全体が、超越論的諸法則に従う一個のシステムをなすことがわかった。超越論的諸法則とは、悟性自身が(諸現象に対して、つまり諸現象が意識の中で結合され経験となるかぎりにおいての諸現象に対して)ア・プリオリに与える法則のことである。】

    Ⅴ Von der reflektierenden Urteilskraft
    Die Urteilskraft kann entweder als bloßes Vermögen, über eine gegebene Vorstellung, zum Behuf eines dadurch möglichen Begriffs, nach einem gewissen Prinzip zu reflektieren, oder als einen Vermögen, einen zum Grunde liegenden Begriff durch eine gegebene empirische Vorstellung zu bestimmen angesehen werden. In dem ersten Falle ist sie die reflektierende, im zweiten die bestimmende Urteilskraft.

    【判断力というのは、与えられた表象について、そこからどんな概念が可能かを、何らかの原理にしたがって〈反省する〉だけの能力であるか、あるいは与えられた経験的表象をつうじて、その根底に存する何らかの概念を〈規定する〉能力であるかの、どちらかとみなすしかない。前者の場合が〈反省的判断力〉、後者が〈規定的判断力〉である。】
  • 2010年10月27日
    Das Geschmacksurteil ist ästhetisch.【趣味判断は直感的になされる】
    Das Wohlgefallen, welches das Geschmacksurteil bestimmt, ist ohne alles Interesse.【趣味判断によって[何かを]良いと思う時、そこにはいかなる関心も含まれない。】
    Das Wohlgefallen am Angenehmen ist mit Interesse verbunden.【[何かが]気持ち良いと思う時、それは関心と結びついている。】
    Das Wohlgefallen am Guten ist mit Interesse verbunden.【[何かを]善いと思う時、それも関心と結びついている】
    Geschmack ist das Beurteilungsvermögen eines Gegenstandes oder einer Vorstellungsart, durch ein Wohlgefallen oder Mißfallen ohne alles Interesse. Der Gegenstand eines solchen Wohlgefallen heißt schön.【趣味とは、いかなる関心もまじえずに、ある対象あるいは表象の仕方を、良いあるいは悪いという気持ちによって判定する能力のことである。そうした良いという気持ちの向かう対象が、美しいのである。】

文学部英語B

  • 2010年10月7日

    芸術とは何か? — 制度からの分析
    ジョージ・ディッキー『芸術と美的なもの — 制度からの分析』(1974)

     「芸術」を、その必要十分条件を特定することによって定義しようとするのは、古くからの試みである。最初の定義 — 模倣論【芸術とは模倣であるという理論】 — は、今では明らかに支持しがたいものに思えるが — 十九世紀のある時期までは、誰もが多少ともそれで満足していたのである。芸術における表現論【芸術とは表現であるという理論】が模倣論の支配を崩して以後は、これこそが芸術の必要十分条件なりと称する夥しい定義が現れた。1950年代半ば、概念に関してウィトゲンシュタインが語ったことに刺激された何人かの哲学者たちは、芸術には必要十分条件などないのだと論じ始めた。最近まで、あまりに多くの哲学者がこの議論に納得したために、新たな定義はぱったり止まってしまった。わたしは最終的には「芸術」が定義可能であることを示すつもりではあるが、これまでその可能性が否認されてきたために私たちが「芸術」という概念をより深く考察せざるをえなかったことには、たいへん大きな価値が存している。それ以前に次々と提出された、うんざりするような表面的定義の数々は、様々な理由から、堂々と退けてよい。模倣論以来、「芸術」を定義しようとする伝統的な試みは〈第1段階〉として、「芸術」は定義できないという主張は〈第2段階〉とみなしてよいだろう。わたしは、伝統的定義の不都合を避けかつその後の分析における洞察をも取り入れるように「芸術」を定義することで、〈第3段階〉を提示したい。【またここで】注記しておきたいのは、芸術の模倣理論を採用してきたのはそれについて真剣に考えずに支持してきた人々であり、したがってそれは後の諸理論と同じように自己意識的な理論と考えることはたぶんできないだろうということである。

  • 2010年10月14日

     定義の伝統的な試みは、芸術作品の持つ目立つが偶発的な特徴、その歴史的展開のある段階において芸術を性格づけていた特徴を越えて、その彼方を見ることができなかった。たとえばつい最近まで、はっきりと芸術らしくみえる芸術作品というのは、目に見えて再現的なものか、再現的と思われるものかどちらかであった。絵画や彫刻は見るからにそうであり、音楽もまたある意味で再現的と考えられていた。文学はそれが人生の知られた情景を描き出す点で再現的だった。だから当時は、模倣が芸術の本質に違いないと考えることは苦もなくできた。模倣論の焦点は、芸術作品が持つ即座に分かる関係的性質、つまり芸術の主題への関係にあった。非対象的芸術の発展が、模倣は芸術に常に伴う属性ですらないこと、ましてや本質的な属性などではないことを示した。

     感情の表現としての芸術という理論の焦点は、芸術作品が持つもうひとつの関係的属性、つまり作品とその制作者との関係にある。表現論もまた不十分なものであることが分かったが、それに続く他の諸定義のいずれも満足のいくものではなかった。定義としては完全に満足のいくものではなかったといえ、模倣論と表現論はたしかにひとつの鍵を与える。すなわち、両者とも芸術の〈関係的〉属性を本質的なものとして選び出したのである。わたしがこれから示すように、芸術を定義するふたつの特徴はたしかに関係的属性なのであるが、そのうちのひとつは度を越えて複雑なものであることが判明するだろう。


     「芸術」は定義しうるということに対する、最もよく知られた否定的議論は、モリス・ウィーツの論文「美学における理論の役割」に見出される。ウィーツの結論は彼の「一般化論」および「分類論」と呼びうるふたつの議論に基づいている。「一般化論」を述べるとき、ウィーツは「芸術」という類の概念と、悲劇、小説、絵画等々という芸術の様々な下位概念とを区別する。彼はさらに「小説」という下位概念は開かれていること、つまり小説というクラスに属する個々の作品はいかなる本質的・決定的特徴も共有しないことを示そうとする論を提示する。そして彼はそれ以上の議論をせずに、小説に当てはまることは芸術についての他のすべての下位概念にも当てはまると述べるのである。ひとつの下位概念からすべての下位概念へと一般化するのは、正しいとも正しくないとも言えるだろうが、わたしはここではそれを問題にはしない。わたしが問題にしているのは、ウィーツがそれに加えて、またしても議論抜きで行う主張、つまり「芸術」という類概念も開かれているという主張である。芸術の類としての意味に関する彼の結論について言えるのはせいぜい、それが支持されていないということだ。芸術の下位概念のすべてあるいはいくつかは開かれていたとしても、「芸術」という類の概念は閉じているかもしれないのである。つまり、小説、悲劇、彫刻、絵画のような下位概念のすべてあるいはいくつかは必要十分条件を欠いているかもしれないが、それと同時にそうした下位概念すべての類である「芸術作品」は、必要十分条件によって定義しうるのである。悲劇は、それをたとえば喜劇から〈芸術という領域の内部で〉区別するような共通の特徴は何も持たないかもしれないが、芸術作品を非芸術から区別する共通の特徴は存在するかもしれないのである。「閉じた類/開かれた種」といった関係をさまたげるものはない。ウィーツ自身最近、類と種の関係(もっとも逆だが)についての似たような例と彼が考えるものを引用している。彼は「試合」(類)は開かれているが「メジャーリーグの野球」(種)は閉じられていると論じるのだ。

     彼の第二の議論である「分類論」は、人工的制作物であるという特徴ですら、芸術の必要条件ではないのだと主張する。ウィーツのここでの結論はある種驚くべきものである、というのも、芸術作品は当然人工的制作物だということは、哲学者であるか否かを問わず広く前提されてきたからである。彼の議論は単純で、私たちは時々「この流木は一個の美しい彫刻だ」などと言い、そうした発話は完全に理解できるもので、したがって流木の一片のような非人工物も芸術作品(彫刻)であるというものである。別な言い方をすれば、何かが芸術作品と分類されるためにはそれが人工的制作物である必要はないのである。わたしは手短にこの議論を反駁してみたい。

     モーリス・マンデルボームは最近、「ゲーム」が定義できないというウィトゲンシュタインの有名な主張および「芸術」についてのウィーツのテーゼに関して、ひとつの問いを提起した。両者に対する彼の挑戦は、彼らが関わっているのが単に、マンデルボームが「目に見える」特徴と呼ぶものだけであり、そのために両者とも、ゲームあるいは芸術の提示されない、関係的な特徴を考慮しそこなっているということに向けられている。「目に見える」特徴とマンデルボームが言うのは、たとえばある種のゲームではボールが用いられるとか、ある絵画は三角形の構図を持つとか、絵のある部分は赤いとか、あるいは悲劇の筋書きには運命の反転ということが含まれているとかいった、容易に分かる性質のことである。マンデルボームは結論として、ゲームの目に見えない特徴を考慮するなら、それら共通の特徴として「参加者あるいは観客を夢中にさせるような非‐実際的な関心[といったもの]を引き起こす力がある」と述べる。
  • 2010年10月14日
    ...【前回の続きの段落】「ゲーム」についてマンデルボームが正しいかどうかは分からないが、わたしが興味を持つのは、彼が目に見えない性質についての意見を芸術の定義にも応用している点である。彼は「芸術」の定義を企てているわけではないものの、マンデルボームはたしかに、もしも芸術の目に見えない特性に注意するなら、「芸術」の定義の基礎となるような、すべての芸術作品に共通する(一個かそれ以上の)特徴が、おそらく発見されるだろう、ということをたしかに示唆している。

     マンデルボームが定義について述べたきわめて貴重な示唆を指摘しておいて、さて制作物という性格に関するウィーツの議論に戻ろう。ウィーツの誤りを示す先の試みの中で、わたしは「芸術作品」にはふたつの意味、つまり評価的意味と分類的意味とが存在することを指摘すれば十分だと考えた。ウィーツ自身、これらを彼の論文の中では、芸術の評価的意味および記述的意味として区別していた。わたしが先に行った議論は、もし「芸術作品」に複数の意味があるなら、「この一片の流木は見事な彫刻作品だ」という文が理解できるからといって、それはウィーツが証明したいことを証明するものではない【「評価的意味」では芸術作品だが「記述的」あるいは「分類的」意味ではそうではないから】ということである。【そのためには】ウィーツは、「彫刻」がこの文中において分類的意味で使われていることを示さなければならないだろうが、そうしようと試みてはいない。わたしの議論で言いたいのは、いったん区別がなされたのなら、「彫刻」はここでは評価的意味で使われているということである。リチャード・スクラーファニは後に、わたしの議論はウィーツがの議論に結論がないことを示すだけで、ウィーツはいぜんとして正しいかもしれないと指摘したが、スクラーファニの議論は彼の結論を示してはいない。それどころかスクラーファニは、この点でウィーツに反対する、より強力な議論を組み立てたのである。

     スクラーファニによれば、「芸術作品」には第3の意味なるものがあり、「流木のような例」(非制作物の例)はその意味に当たる。彼はまず、範例的な芸術作品、ブランクーシの『空間の鳥』を、それにそっくりの一片の流木と比較することから始める。スクラーファニの言うには、一片の流木についてそれが芸術作品だと言うこと、それがブランクーシの作品とあまりに多くの点で共通しているがゆえにそう言うことは、当然のように思える。そして彼は、私たちがその流木についてそのように述べたこと、そのことがどんな〈方向〉に導くかよく考えるようにと促す。私たちが流木は芸術だと言ったのは、それがある範例的な芸術作品に似ているから、あるいは流木が範例的な芸術作品といくつかの点で似ているからである。範例的な芸術作品はもちろん常に制作物であるのに対して、私たちがとった方向は範例的(制作された)芸術作品から、制作されない「芸術」へという道である。スクラーファニがこの例によって、「芸術作品」にはまず第一の、範例的な意味(わたしの言う分類的意味)が存在し、次に「流木の例」がそうであるような派生的あるいは二次的な意味があることを示しているのはまったく正しい。流木が芸術であると言っている点ではある意味でウィーツは正しいのだが、芸術(の第一の意味)にとって制作物であることが必要ではないと結論づける点で間違っているのである。

     そうなると、「芸術作品」には少なくとも3つの、はっきり区別される意味があることになる。第一の分類的意味、第二の派生的な意味、そして評価的な意味である。ウィーツの流木についての発話の例が使われる場合のほとんどは、派生的意味と評価的意味の両方が関わっている。すなわち、もし流木が範例的な芸術作品といくつかの共通した性質を持つならば範例的な意味になり、話者がその共通の性質を価値あるものとするなら評価的な意味となる。スクラーファニは評価的意味だけが働く次のような場合もあげている。つまり誰かが「サリーの作るケーキは芸術作品だ」というような場合である。そうした文が使われる場合はたいてい、「芸術作品」とは、そこで言及されているものに貴重な価値があると言っているだけである。たしかに、派生的な意味がケーキに適用されるような文脈があることは想像できるかもしれない(今日の芸術状況を考えれば、第一の意味における芸術とみなしうるケーキだって、十分想像できる。)けれどももし、誰かが「このレンブラントは芸術作品である」と言うなら、そこには分類的意味と評価的意味の両方が働いているだろう。「このレンブラント」という表現は、それが指し示しているのが分類的意味における芸術作品であるという情報を伝えるし、そうすると「それは芸術作品である」は、評価的意味でのみ筋の通ったものとして理解できる。最後に、たんに人の顔みたいに見えるというだけの貝殻とか他の自然物について「この貝殻(あるいは他の自然物)は芸術作品である」という人がいるとしたら、その場合は派生的な意味のみが用いられているのである。

     私たちは、「芸術作品」という表現が評価的意味を持つような発話を頻繁にしており、その時にはそれを自然物と制作物との両方に用いている。派生的意味における芸術作品について語ることは、それよりはいくぶん少ない。分類的意味での「芸術作品」というのは、あるものが制作物の中のひとつのカテゴリーに属しているということを示すだけであるが、私たちの会話の中で言われるのはきわめて希である。私たちが分類的意味を用いる文を滅多に言わないのは、それがあまりに基本的な概念だからである。一般に、あるモノが芸術作品であるかないかはすぐに分かるので、人は分類的な意味で「これは芸術作品である」と言う必要はないのだが、ジャンク彫刻やレディ・メイドのような芸術における近年の発展をみると、そうした発言をしなければならない場合もあるだろう。しかしながら、たとえ私たちがこの分類的意味で語ることは少ないとしても、それがこの世界とそこに存在するものについて考える基準となり手引きとなるのである。

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