IAMAS ARTIST FILE #02
前田真二郎・齋藤正和
「記録と行為/映像表現の現在形」

2014. 9.27(Sat), 28(Sun)14:00~16:00 入場無料

岐阜県美術館[講堂]

岐阜県美術館・情報科学芸術大学院大学[IAMAS]共同開催企画

前年に続いて2回目となる"IAMAS ARTIST FILE"は、2日間で120名以上の方に足を運んでいただくなか盛況裏に閉幕しました。情報科学芸術大学院大学[IAMAS]に関係するアーティストを 紹介するこのシリーズ、今回は前田真二郎 IAMAS 教授と卒業生であり2011年度までIAMAS助教を務めた齋藤正和が取り上げられました。両名は共通して岐阜に住みながら数年に渡る撮影を継続し、現実世界を取り込む映像表現を探求しています。本イベントでは、2014年のイメージフォーラム・フェスティバルに偶然、同時に選出され、国内4カ所の発表で注目された2つの映像作品を上映し、作者を交えてのトークセッションを開催しました。

レポート

上映終了後にはトークセッションが設けられました。両日ともに対談相手として澤隆志(映像作家・キュレーター)を迎え、初日は西山恒彦(岐阜県美術館学芸員)の司会で齋藤正和が、二日目は前田真二郎が各々自作について語りました。以下に澤、齋藤、前田、それぞれの発言の要旨をレポートします。

澤隆志

1971年生まれ。映像作家・キュレーター。2001年から2010年まで、映像アートの国内巡回上映展「イメージフォーラム・フェ スティバル」のプログラムディレクター。現在はフリーランスで国内外の映画祭や「あいちトリエンナーレ2013」などの美術展で映像プログラムを担当。

(以下は、2日間の発言をまとめています。)

「映画『と』考える」ということが、商業的な劇映画とは異なる表現としての映像作品に携わる際の思考ではないかと澤は言う[1]。映画と考える。このとき前提とされているのは、映画がわたしたちの日常を直接的に投影してゆくということではなく、むしろ映画がわたしたちの生活とは独立した動きや構造などの制度体系を有しており、そうしたものとしてわたしたちに関係しているということである。

澤によると、映画というものはその誕生から既に多方向的なものであった[2]。シネマトグラフを発明したリュミエール兄弟による世界初の映画群は、そのすべてが劇映画であり、記録であり、表現でもあり、さらにそれらは興行としての映画、つまり映画産業の始まりでもあった。すべては未分化の状態で、後に傾向化する諸々の特性を備えたひとつのポテンシャルとして映画は誕生したのである。

「日記映画」というものをひとつの枠組みとして認知させたのは、リトアニア出身の映像作家ジョナス・メカスである。メカスは50年代半ばにリトアニアからアメリカへと亡命し、英語が話せない中で日常を撮影した。撮影されたフィルムが編集されたのは約20年後[3]。約20年も前の過去のフィルムを編集するという行為は、メカスにおいて個人的な記憶と社会的な記憶との混合を生じさせることとなる。

鈴木志郎康が1980年に発表した『15日間』は、15日間、毎日6分、同時録音カメラで自らを撮影するという規則のみを予め決定し、あとは偶然にゆだねられた合計90分(=15×6)の作品である。15日の間に、鈴木は日記映画というものが何かということを理解し始める。この作品は、日記映画であると同時に、日記映画発見のプロセスの記録でもあったと言える。

身体と社会を表現しようとする際のひとつの手法として、自らを被写体とする仕方が知られるが、90年代に入ると、漫画や写真などのジャンルと重なりながら、セルフ・ポートレートとしての映像作品を撮る作家が多く登場する。90年代の終わり頃からは、個人映画の主流は完全なデジタル制作へと移行し、グラフィカルなイメージがタイムラインを持つような作品を手がける若い世代の作家が台頭した。

澤は、2000年代以降の個人映画の領域において、「凝視」する表現に注目していると述べる[4]。昨今の表現群が鑑賞者のうちにそのような認識を芽生えさせ、映画祭で特集が組まれることもあれば、美術展でそうした映像作品が扱われるのも珍しいことではなくなった。このことは、高性能の映像撮影装置を何億もの人々が所持しているということと並行している。

映画がその黎明期に開示していた「自らの生」と「映画」との不可分性は、撮影装置の全面的普及によって、映画の誕生から一世紀以上を経て再び、今度はわたしたちにより近いかたちで現れることとなった。さらに、映画の誕生時には許されず、数年前までも限られた人々にしか許されてこなかった映画における日記的な表現が、いよいよすべての人々に開放されることとなったのである。

日記について澤が強調するのは、それがアンビバレントな性質を持つものであるということである。例えば、日記とは、他者に読まれないことを想定して書くものであると同時に、概念的な他者に向けて書くものであるとも言えるだろう。そこで澤は問うのである。そうしたことを人々は日記で行っているにもかかわらず、なぜ表現者はわざわざ日記というアプローチで作品を作るのだろうか、と。

近年、風景の映像に声や物語、あるいは記憶を重ねることによってイメージに厚みを持たせるような試みが増えてきている。映画がいかにして生であり、生がいかにして映画であるか。その中で日記映画は、「ある日のある時間」という単位を複数連続させることによって、ひとつの単位が単独で持つ意味を、単位間の関係性によって変化させる装置として機能するものであると言うことができる。

例えばひとつの単位としての15秒のカットは、それがいくつも連続している中のひとつとして提出される場合と、単独の15秒として提出される場合とでは、鑑賞者に対してそれぞれ異なる意味を作用させるものとなる[5]。澤の視点は、日々の連続の広がりが表現の可能性の広がりとなって、部分と全体のあいだに立つ者であるところの表現者に返ってくるということを示している。

スタッフレポート・佐原浩一郎

脚注

  1. 作家の多和田葉子は「文学『を』考える」(文学の対象化)でも「文学『で』考える」(文学の手段化)でもなく、「文学『と』考える」(「文学」という制度の他者化)ことによって見えてくることの可能性を重視する。^
  2. 1894年、リュミエール兄弟によってシネマトグラフが発明され、1895年に初めて映画が公開上映された。^
  3. 『リトアニアへの旅の追憶』(1972年)。^
  4. 澤が挙げたのは以下の5作品。佐々木友輔『手紙』(2003年)、ワン・ビン『名前のない男』(2009年)、祢津悠紀『空の箱』(2006年)、シャロン・ロックハート『ダブル・タイド』(2009年)、ベン・リヴァース『湖畔の2年間』(2011年)。^
  5. 澤は「ひとつのもの」と「連続性のあるもの」として、「日」と「日々」の組み合わせ以外にも、「表情」と「面影」、「写真」と「映像」などを挙げた。^

齋藤正和

1976年大阪生まれ。2003年情報科学芸術大学院大学[IAMAS]修了。同校助教を経て現在は名古屋学芸大学講師。主な作品にコンピュータ自動編集による映像作品「Sunsession」や、岩下徹(ダンサー/舞踏家)とのコラボレーション『動の影 岩下徹というからだ』がある。映像と他のメディアを組み合わせたインスタレーション作品を国内外で発表。

齋藤の説明によると、『休日映画』は、大きく二つのパートによって構成されている。ひとつは毎月家族四人が集まって撮影し、その映像にニュース音声が合わせられている15秒のパート。もうひとつは撮影のタイミングが予め決められているわけではないものによって構成されたパート。イベントがあったり、撮りたいと思ったときに撮られたもので構成されている。いずれも、インターネットでの視聴が前提となっている。

それぞれの動画は数分の長さに編集されており、ひとつの動画はそれ単独での完結を許すものとして公開されている。動画はすべてYouTubeにアップロードされ、アーカイブのインデックスとしてTumblrが採用されているのだが[1]、つまり、そもそもが今回のように時間と場所を限定した上映ではなく、自宅のPC、あるいはiPhoneなどで自由に動画を選択して見るということが意図されている。

大きなスクリーンでの上映は、そのような制作の立場からはどのように理解されるのだろうか。齋藤はそれについて、その拘束性(時間と場所が制限され、自由に停止したり再開したりすることができない)および映像との関係性の変化(画面も音も大きくなり、対峙するようなかたちになる)の側面から語り、上映特有の倫理性の中から見えてくるユニークな感覚の存在を指摘する[2]

さらに、画面が大きくなることによって、小さな画面では気づくことができない細部が見えてくるのだと言う。このことが意味するのは、作家にとってあるひとつの映像が、その上映サイズによってそれぞれ異なる素材として把握されうるということである。実際齋藤は、YouTubeにアップロードしたものをただつないでいるわけではなく、今回の上映のために再編集を施している。

今回の上映には齋藤の幼い子供が来場しており、画面に映し出される自らの姿、あるいは家族の姿に反応し、喋ったり、時には歌ったりするということがあった。映画の音声とともに、彼女の小さな喋り声が聞こえてくる。しかもそれは、映画に登場している人物であり、そしてその人物は幼い。このような事柄は、上映という形態が未だ多くの可能性を残しているということを示す。

齋藤は2009年に第一子を授かり、ロケに出て撮影するということが制限される中で何ができるかというところで、身近なもの=家族を継続的に残していくというアイデアに至る。「どういうかたちになるかは分からないが、とにかくまずは10年やってみようと思った」と齋藤は言う。その意味では、3年目に震災が発生し、今回の上映においてはそのことが非常に色濃く現れている[3]

先日には初めて長女から撮影を拒否されたのだと言う。長女は来年小学校に入学し、そこで自らの属する新たなコミュニティが形成され、撮影のタイミングに家にいないということも起こりうるだろう。『休日映画』を作っていく中で、微細な変化だけではなく実は常に大きな変化を伴う日常というものに齋藤は並走してゆく。これまでと同様の要素で作ることができなくなれば、当然作家は対応しなければならない。

撮影時、齋藤は予め撮影したいイメージを持っている。家族が毎月四人そろっている15秒のワンカットは、その撮影の準備に一時間を要するということも稀ではない。自らのイメージに近いものではない場合や、演出通りに進まない場合には、違うことをしてみて、そちらのほうを生かすということもある。その意味ではそうした選択もまた行為として、即興的に判断されてゆくものであると言えるだろう。

「公開されることを前提として撮影する」。このことが『休日映画』と「一般的なホームムービー」を峻別する。齋藤の即興性は撮影以前から常時待機状態にあり、「公開される」可能性を含むような局面に遭遇した場合、齋藤自身のモードが変化し撮影に入るだろう。そしてそこでの撮影は、「公開される映像を撮影するための身体による撮影」であるとして、修飾を排し厳密に指示されるべきものとなる。

スタッフレポート・佐原浩一郎

脚注

  1. YouTubeがフルHD(1920×1080ピクセルの画面解像度)に対応したのが2009年。Tumblrの2009年(『休日映画』開始時)の総アカウント数は約200万だった。^
  2. 「ある違和感を持って見ていたが、一方で、一時間付き合うことで見えてくるある感覚があった。それが面白いと思う」^
  3. 15秒のパートには、撮影された日が属する月のトピックとなるようなニュースが任意に選択され、その音声が流される。東日本大震災以降の15秒のパートの音声は、しばらくは震災関連のニュースに占められている。^

前田真二郎

1969年大阪生まれ。情報科学芸術大学院大学[IAMAS]教授。映画、ビデオアート、ドキュメンタリーなどの分野を横断して、国内外の映画祭や展覧会で発表を続けている。WEBムービー・プロジェクト『BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW』が第16回文化庁メディア芸術祭・アート部門にて優秀賞を受賞。DVDレーベルSOL CHORDの監修をつとめる。

前田が2005年に発表した『日々 "hibi" 13 full moons』は、2004年の元旦から大晦日まで、毎日撮影された15秒のカットを366日分つないだ映像作品である。まずはそのように、短いカットを毎日撮影し、それがつながった映像というものが構想され、期間は一年で、一日分のカットが15秒で、撮影時刻に規則を設ける、ということがひとつひとつ決定されていった。

前田は「15秒」というひとつの単位について、「長く感じさせることもできるし、短く感じさせることもできる、不思議な長さ」であると述べる。366カットの映像は全体で約90分。一本の映画の長さになる。この15秒を、どの時間に撮ったものを使ってもよいということにしてしまうと、常にシャッターチャンスを窺いながらの生活になってしまう。そのため、撮影の時間帯には規則が設けられた。

月の運行に従って、撮影の時間帯は毎日少しずつ移行してゆく。満月の日は24時(深夜0時)に、新月の日は正午に撮影される。一日あたり一時間弱ずつずれてゆくことにより、カットが替わる毎に日をまたいでいるにもかかわらず、同じ一日の時間が経過するように映像は移り変わってゆく[1]。撮影できなかった日の位置には、日付とそのときにいた場所の名称が15秒間表示される[2]

今回上映された『日々 “hibi” AUG 7 years mix [2008-2014]』は、『日々 "hibi" 13 full moons』と同様の手法を用いながらも、撮影期間を元旦から大晦日までの366日間ではなく、毎年8月の31日間としている。2008年から制作が開始され、既に7度目の8月が経過した。最終的には2004年版の『日々』と同様に12ヶ月分が揃うまで、つまり2020年まで続けられる予定となっている[3]

映像を作り始めた学生時代の前田の関心は、現在とは異なるところに向けられていた[4]。例えば絵画における印象派のような、風景の精確な描写を目指すものではない作風があるように、映像においてももっと自由に振る舞うことができるのではないか。当時はそのように考えていたと前田は言う。「しかしそれはあくまでも絵画的、音楽的な美学であり、映像の特質に根ざしたものではなかった」。

こうした前田の発言から、「映像の美学」への意志を感じないことは困難である。「作者が目に映るものをすべてコントロールしていくような取り組みをベースとする絵画や彫刻に対して、カメラを使った表現は、すべてを自分が描き出しているのではなく、半分は機械が作っている」。それゆえ作品は、半分は前田のコントロールを離れたものとして提出されることとなるだろう。

ならばその映像において何が志されているのか。「例えばYouTubeなどで様々な映像を見て楽しむようなあり方とは全く別の質のものを目指している」と前田は述べる。「たくさんの人がそれぞれの中に一番のベースになる部分を持って生活を営んでいるのだろうと想像する。本当はそういう話をしたい」。ここで問題とされているのは、生活や社会といったことよりもむしろ、目に見えているこの世界とは何か、なぜ全ての事象は存在するのか、といったより存在論的な事柄である。前田が定めた編集の規則は、図らずも機械が撮ってしまうという部分を持つ映像の特質に基づくものであると同時に、そうした映像が全ての人々に内在されているに違いない存在論的な問いと響き合うということへの期待に基づくものでもある。

映像が「半分は機械が作っている」ものであるならば、残りの半分は機械でないものが作っている。そこは「演出」の領域である。『日々』の制作においては、一日の録画時間が15秒のみであるというわけではなく、15秒以上録画した映像の中から切り取られた15秒が使用されている。撮影の時間帯は規則に従っているため、時間帯や前日までの流れを考慮してその日の撮影場所が選択されてゆく。

ある意味で、前田の試みは映像の多層性に収斂されてゆくと言うことができる。単純にカメラで撮影された15秒の連なりであったとしても、そこには演出と非演出という二極の範囲など、意味の領域における様々なレイヤーが折り重ねられている[5]。前田は自身の作品について、「鑑賞者がより能動的に関係することを可能とするように」思考された、「映像における諸要素のコンポジション」であると述べる。

『日々』は、映像における物語的なコンテクストの理解を前提とする作品として提出されているわけではない。鑑賞者の知らない人々が登場し、物語的意味の与えられていない風景が連続してゆくのだが、それゆえ鑑賞者は特定の情報に左右されることのない感覚および理解の下に置かれる。そのようなタイプの見る楽しみが存在する。そのことを前田は強調し、自らの立ち位置として指し示す。

例えば作者の友人や親族らしき人物が登場するが、彼らは固有名や作者との公的な関係性を与えられる以前に、極めて私的な関係性をそこに漂わせている。前田は、そのような親密さを立ち上げる映像への嗜好を吐露する。このことは、前田が「本当はそういう話をしたい」として挙げる「人々がそれぞれ内在させている一番のベースになる部分」という言葉を思い出させ、それと同時に「機械が撮ってしまう」という映像の新たな可能性を浮かび上がらせる。

スタッフレポート・佐原浩一郎

脚注

  1. 満月の日は24時に撮影され、その翌日は0時台に撮影される。つまり、通常はカットとカットの間には24時間以上の時間経過が挟まれているが、満月の日とその翌日だけはカットとカットの間が1時間以内となるため、その箇所はひとつのアクセントとなっている。^
  2. 撮るのを忘れてしまったり、どうしても撮影する気になれないという場合がある。^
  3. 偶然ではあるが、2020年には東京オリンピックが予定されており、その年までが作品に直接的に含まれるということが決定している中で、「『未来から見て今何を撮っておけばよいのか』を考えるというのもひとつの作り方である」と前田は述べる。^
  4. 前田が映像制作を始めた1990年初頭、PCは未だ普及しておらず、映像における画像処理については限られたビデオエフェクターやアナログ的手法を独自に工夫することで実現していた。^
  5. 例えば劇映画では、脚本の面白さ、役者の巧さ、絵の美しさ、美術の世界観など、様々なレベルの楽しみ方が鑑賞者に理解されている。^

プログラム

9.27(Sat) 14:00~16:00

上映:
『休日映画 2009-2014』(約60分)
トークセッション:
齋藤正和(映像作家)
澤隆志(映像作家/キュレーター)
西山恒彦(岐阜県美術館学芸員)

9.28(Sun) 14:00~16:00

上映:
『日々“hibi”AUG 7 years mix [2008-2014]』(約60分)
トークセッション:
前田真二郎(映像作家)
澤隆志(映像作家/キュレーター)

上映作品

休日映画 2009-2014

2014 / デジタル / カラー / 55分 / 齋藤正和

映像作家である作者は、第一子誕生を契機に「家族」のポートレートの撮影を開始しました。その時々のニュース音声を組み合わせた短編映像を制作してインターネットで公開。それら「休日映画」を一本の映画にまとめたのが本作です。

日々“hibi”AUG 7 years mix [2008-2014]

2014 / デジタル / カラー / 60分 / 前田真二郎

8月の日々。毎日15秒ずつ撮影したカットを31日間つなげていく即興映画。何気ない日常、偶然とらえた決定的瞬間、作者が強い意志をもって記録したカット… 2008年から毎年8月に制作された7作を連続上映します。

プロフィール

齋藤正和

1976年大阪生まれ。2003年情報科学芸術大学院大学[IAMAS]修了。同校助教を経て現在は名古屋学芸大学講師。主な作品にコンピュータ自動編集による映像作品「Sunsession」や、岩下徹(ダンサー/舞踏家)とのコラボレーション『動の影 岩下徹というからだ』がある。映像と他のメディアを組み合わせたインスタレーション作品を国内外で発表。

前田真二郎

1969年大阪生まれ。情報科学芸術大学院大学[IAMAS]教授。映画、ビデオアート、ドキュメンタリーなどの分野を横断して、国内外の映画祭や展覧会で発表を続けている。WEBムービー・プロジェクト『BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW』が第16回文化庁メディア芸術祭・アート部門にて優秀賞を受賞。DVDレーベルSOL CHORDの監修をつとめる。

澤隆志

1971年生まれ。映像作家・キュレーター。2001年から2010年まで、映像アートの国内巡回上映展「イメージフォーラム・フェ スティバル」のプログラムディレクター。現在はフリーランスで国内外の映画祭や「あいちトリエンナーレ2013」などの美術展で映像プログラムを担当。

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1日7便(復路約30分)/ 大人:100円、小学生:50円
西ぎふ・くるくるバス運行情報

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