「言葉の影、またはアレルヤ Aのテクストによる 」は4人の女性キーボード奏者を想定して書かれた作品である。それぞれの女性奏者はコンピュータによって時々刻々指定されていく旋律をキーボードで演奏する。
これらの旋律は4つの小型プロジェクターによって奏者達の前に楽譜として投影される。その際、第一の女性が基本旋律となるメロディーを鋸波やノイズによってメロディーを演奏する一方で、他の3人によって演奏される音符(音程-周波数)は、サイン波によってそのまま発音されると同時に、独立して作動する3つのフィルターにおけるバンドパス周波数と連動しており、第一奏者の基本旋律の音色を変形する。言い換えるとこれは、フィルター周波数のツマミを手分けして「演奏」するようなものであり、全体としては発音及び音色の変形を行う減算方式のアナログシンセサイザー的な構造を形作ることになる。この作品は移り変わる音色の音楽である。






これがぼくの名前なのだ。ぼくが存在した瞬間からこの名がついていて、やるべきことも決まっていた。しかしぼくには国籍がない。 と、主張した少年のテクストをもとにこの作品は書かれた。この作品は音、演奏、楽譜、表現すること、聴くこと、体験すること、など様々なことやものに対する疑問をぼくなりにひとつにあつめ、形にする試みだ。そこでは様々な現時点における最新のテクノロジーが使われているのだが、それらはもっぱらそれらの疑問の答えを検証するための手段であり、そのようなテクノロジーの使い方以外の用途をぼくは今考えることができない。ここでは、高音質の音響データをリアルタイムで扱えるようになった現代のコンピュータがその横で無思慮で大きなファンノイズを発生させている、そのことさえも対象化され、作品の一部としている。そしてこれはひとびとのおこないの何もかもが情報化され記号化されていくこの世界で、その巨大な記号化プロセスに対する反抗でもある。
誰もがモンスターをイメージしていたのに、それはまだ小さな少年だった。そして誰もがそのことにとても驚いたのに、不思議と何か思い当たるものがあった。少年は読み間違えられた名前について抗議した。そして自分には国籍がなく、自分の名前で人から呼ばれたことがない、といった。・・・社会的な扱いや心理分析はここではどうでもよい。ぼく自身も思い当たったこの「何か」にならって思考し、作品が作れないかと思った。実体のない影、透明なものだけを集めて作品がつくれないかと。そのような意味でこの作品において見えるもの、聴こえるものはすべてが何かの象徴でしかない。もちろん少年の思考を完全にシミュレートすることなど不可能だし、ぼくなりの解釈や訴えがそこに混入していないはずもない。ただノンフィクション作家がいるように、ノンフィクション作曲(!)家などという態度があってもおかしくはないだろうと考えた。これはジャーナリズムとは無関係である。


「アレルヤ」について

この作品の内容は一言で言えばエロスであり、宗教的信仰であり、現代人のぼくらが抱く世界と自己に対するイメージの混乱ということになるかもしれません。

「伝わる」こと。そしてARTにできること。

アートや音楽においての「伝わる」って言葉はそもそも人間が生まれながらにして持ってる絶対的ななにかが呼び起こされるかどうかってことであって、そういう意味では僕になんらかの情報があってそれが聞く人に正確に伝わるとかっていうんじゃないと僕は思うんですよ。そしてテクノロジーの根っこっていうのは人間だれでも持っているのと同様に、その誰もが生まれながらにして持っているものを感じ合い確認しあうことをするものがアートだったり音楽だったりするんだと思うんですよね。

「おまじない」という「言葉の別の使用法」

美しさといったこと自体の価値とか手がかりがみんな相対化してしまい、与えられていないから模索するというか、ただ手放しで迷うしかないといった状況で、言葉も完全に使うことができず、もはや歌われるべき美しい歌もなく、そんな状況で僕が音楽でなにをできるかというと、ある種の「おまじない」を作るしかないって思うんだ。おまじないといった場合にはさあ、その瞬間、これでなにかいいことがあるんだとか神様がなにかしてくれるとかさ、この世界にはないこの世ならぬ力を想定してるんだと思うんだ。キリスト教とか1つの宗教の始まりの場合言葉がでてきて、そして言葉によっていろんなことが言われるようになって、結局最後は言葉によって殺されてしまってるんだと思うんだよね。言葉によって神なら神、世界なら世界、そういうものがどんどん強い存在になっていく一方で…おまじないという「言葉の別の使用法」があって、それは人間の根っことつながる非常に直感的なもので…おまじないというと僕は子供を思い浮かべるんだよね。子供達が道ばたで遊んでてさ、ふとしたことでおまじないをはじめたりするわけだよね。それはもっともシンプルで純粋な、この世で見えるなにかなんだってイメージはあるんですけどね。


■ フォルマント合成
この作品では4人の奏者のMIDIキーボードによる合奏によって人声の合成が行われる。その方法は音声合成の研究分野で古くから知られている「フォルマント(ホルマント)合成」と呼ばれる原理によるものである。これは人声の母音において、その部分音がある特定の周波数帯域(フォルマント)に強く現れる現象に従い、全周波数帯域に部分音を多く均等に含む波形(例えば鋸波)をバンドパスフィルターによってフォルマント周波数の領域のみ強調し、それ以外の領域を取り除くことにより、擬似的に人声を合成する方法である。その際、この鋸波は人間の声帯、フィルターは人間の口の形にそれぞれ対応することになる。(三輪眞弘)


■ 「有罪者・ハレルヤ」
凍りついた悲しみに、生の壮麗な恐怖感にうちひしがれて!激昂の涯まで来て、今日、わたしは深淵の崖っぷちにいる。最悪のものの、耐えがたい幸福のぎりぎりの点まで来ている。目くるめく絶頂で、わたしはハレルヤを歌う。おまえの耳にするかぎりもっとも純粋な、この上もなく苦悩にみちたハレルヤを。

   G・バタイユ著、出口裕弘訳、無神学大全「有罪者・ハレルヤ」
   現代思潮社





三輪 眞弘
Masahiro MIWA

教授

作曲家。1958年 東京生まれ。
1978年渡独。 国立ベルリン芸術大学で作曲をイサン・ユンに、1985年より国立ロベルト・シューマン音楽大学でギュンター・ベッカーに師事する。
1992年第14回ルイジ・ルッソロ国際音楽コンクール(イタリア)第1位、1995年村松賞新人賞などを受賞する。
作品集CD「赤ずきんちゃん伴奏器」、「東の唄」(フォンテック)