これがぼくの名前なのだ。ぼくが存在した瞬間からこの名がついていて、やるべきことも決まっていた。しかしぼくには国籍がない。
と、主張した少年のテクストをもとにこの作品は書かれた。この作品は音、演奏、楽譜、表現すること、聴くこと、体験すること、など様々なことやものに対する疑問をぼくなりにひとつにあつめ、形にする試みだ。そこでは様々な現時点における最新のテクノロジーが使われているのだが、それらはもっぱらそれらの疑問の答えを検証するための手段であり、そのようなテクノロジーの使い方以外の用途をぼくは今考えることができない。ここでは、高音質の音響データをリアルタイムで扱えるようになった現代のコンピュータがその横で無思慮で大きなファンノイズを発生させている、そのことさえも対象化され、作品の一部としている。そしてこれはひとびとのおこないの何もかもが情報化され記号化されていくこの世界で、その巨大な記号化プロセスに対する反抗でもある。
誰もがモンスターをイメージしていたのに、それはまだ小さな少年だった。そして誰もがそのことにとても驚いたのに、不思議と何か思い当たるものがあった。少年は読み間違えられた名前について抗議した。そして自分には国籍がなく、自分の名前で人から呼ばれたことがない、といった。・・・社会的な扱いや心理分析はここではどうでもよい。ぼく自身も思い当たったこの「何か」にならって思考し、作品が作れないかと思った。実体のない影、透明なものだけを集めて作品がつくれないかと。そのような意味でこの作品において見えるもの、聴こえるものはすべてが何かの象徴でしかない。もちろん少年の思考を完全にシミュレートすることなど不可能だし、ぼくなりの解釈や訴えがそこに混入していないはずもない。ただノンフィクション作家がいるように、ノンフィクション作曲(!)家などという態度があってもおかしくはないだろうと考えた。これはジャーナリズムとは無関係である。
「アレルヤ」について
この作品の内容は一言で言えばエロスであり、宗教的信仰であり、現代人のぼくらが抱く世界と自己に対するイメージの混乱ということになるかもしれません。
「伝わる」こと。そしてARTにできること。
アートや音楽においての「伝わる」って言葉はそもそも人間が生まれながらにして持ってる絶対的ななにかが呼び起こされるかどうかってことであって、そういう意味では僕になんらかの情報があってそれが聞く人に正確に伝わるとかっていうんじゃないと僕は思うんですよ。そしてテクノロジーの根っこっていうのは人間だれでも持っているのと同様に、その誰もが生まれながらにして持っているものを感じ合い確認しあうことをするものがアートだったり音楽だったりするんだと思うんですよね。
「おまじない」という「言葉の別の使用法」
美しさといったこと自体の価値とか手がかりがみんな相対化してしまい、与えられていないから模索するというか、ただ手放しで迷うしかないといった状況で、言葉も完全に使うことができず、もはや歌われるべき美しい歌もなく、そんな状況で僕が音楽でなにをできるかというと、ある種の「おまじない」を作るしかないって思うんだ。おまじないといった場合にはさあ、その瞬間、これでなにかいいことがあるんだとか神様がなにかしてくれるとかさ、この世界にはないこの世ならぬ力を想定してるんだと思うんだ。キリスト教とか1つの宗教の始まりの場合言葉がでてきて、そして言葉によっていろんなことが言われるようになって、結局最後は言葉によって殺されてしまってるんだと思うんだよね。言葉によって神なら神、世界なら世界、そういうものがどんどん強い存在になっていく一方で…おまじないという「言葉の別の使用法」があって、それは人間の根っことつながる非常に直感的なもので…おまじないというと僕は子供を思い浮かべるんだよね。子供達が道ばたで遊んでてさ、ふとしたことでおまじないをはじめたりするわけだよね。それはもっともシンプルで純粋な、この世で見えるなにかなんだってイメージはあるんですけどね。
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