- 壊れた言葉 - 

META-MUSIK

 せっしゃのおんがくこわれたします・・


"META-MUSIK"(メタムジーク)というタイトルは「音楽で音楽を語る」、「音楽についての音楽」という意味あいで考えました。このアルバムには1996年以後の日本での活動、つまり「東の唄」以後の作品が集められています。ドイツから日本に移り、新しい環境の中で次の一歩が踏み出せずに苛立ち、模索を続けた時期の作品群です。それは何より自分がそれまで表現の前提としていた現代音楽のシーンや語法に対する根本的な疑いと「作曲する」という行為への問い直しの作業でした。その答えがいつまでも出ないので、とにかくいろいろとやってみました。自分が勉強したドイツには確かにあった現代音楽シーンが日本に「ない」という現実に直面した自分にとってこの過程はある種の必然でした。

しずかはひびきます、おししょうさんおざしきでコンピューターひとりあそびます・・

  箏とコンピューターのための 曙継承 (1994)
箏:高田香里
Live Recording at XEBECHall, Kobe on Nov. 5. 1994

(16' 49")

にほんのひとりがいこくじんかなしいこころです・・

 サイケデリックぶんぽうの かなしいこころ (1996)
作詞+ヴォコカル:三輪眞弘
サンプリング・ループ:川崎義博

ターンテーブル+メロディカ:オノサトル

へんな音:エリック・ライオン

ベース:モーリー・ロバートソン

Live Recording at ClubMetro, Kyoto on Apr. 27. 1997

(7' 42")

サックスふくと電子メールします・・

 サクソフォン、ピアノとコンピューターのための SendMail (1995)
ソプラノサックス:野田燎
ピアノ:中村和枝

Live Recording at NTTAtsugi Basic Research Laboratories on Feb.20. 1997

(6' 21")

せっしゃふとんでパパとママからうまれます。しりとりしてかえるをまちます・・

 バイリンガル話者とKYMAシステムのための SpeechManager (1997)
テクスト+話者+ライブオペレーション:モーリー・ロバートソン
ミキシング:三輪眞弘

Live Recording at XEBECHall, Kobe on Oct. 31. 1997

(25' 29")



(total: 56' 22")

Thanks to all musicians on this CD, Nobuhisa Shimoda & Xebec Hall

アイコン (C)村上寛光 


プログラムノート

1994年夏に箏の高田香里のために書かれた「箏とコンピューターのための曙継承」は箏とコンピューターがそれぞれ独立した存在として並置され、座敷に箏とコンピューターがあればいつでも演奏が可能で、また奏者の興が乗ればいつまでも演奏を続けることのできるインタラクティブな音楽である。
箏の演奏が、マイクロフォンを通してコンピューターに伝えられ、全体の進行を決定していく一方で、合成音声によるコンピューター側から様々な箏の奏法、押、押放、後押、重押、突色、揺色、掻手、合爪、裏連、引連、掬爪、割爪、散爪、掛爪、アルペジオ、トレモロ等が北米英語訛の言葉によって指示され、奏者はそれを全体の演奏を通じて繰り返される13の音程(曙調子に調律された13の糸)に対して施し、音に変換していく。曲を構成する5つのパートの演奏順序は無作為に決められ、起承転結のない、ただひたすら時間を堆積させていく「装置」ともいえるこの作品の中で、作曲者は一音成仏という言葉に代表されるような沈黙の中に屹立するひとつひとつの音、そしてその音達から必然的に立ち現れる無限の意味を背負わされる間、いわば「沈黙の響き」(SoundofSilence)をその「沈黙の響き」自身によって塗りつぶしてしまおうと考えたのである。
 なお、この作品における最も重要なプログラムの部品(オブジェクト)である、合成音声のコントロールをプログラミング環境、MAX上で可能にした"speech"や音響レベルの監視に使われる"siLevel"そしてサウンド・サンプリングを可能にした"sndrec"はコンピューター・ネット上にのみ存在する架空のコンピューター音楽スタジオ”コンミュ”の活動を通して作曲者の友人である赤松正行氏の手によって書かれたものであることをここに記し、心より感謝したい。(初演、プログラムノートより)

 

「サイケデリックぶんぽう」は4人(後に5人)の音楽家から成るライブパフォーマンスのユニットで、テクノロジーを駆使したリアルタイムでの音響合成、加工などを主軸とする演奏家集団としてベルリン、ケルン、神戸、京都などでライブを展開してきた。即興がメインで曲全体の大まかな進行だけを打ち合わせておくのがこのユニットのスタイル(といっても十分な意見交換や練習時間がとれないという現実の要請から導かれた結果だったとも思う)だったが、「もっときっちり作曲してみよう」と考えて生まれたのがこの作品で、テクノ、ダンス音楽的な傾向の曲が多いこのユニットには珍しい3番まで歌詞がある歌謡音楽である。「きっちり作曲」といっても全パートの楽譜を書いたわけではなく、メンバー間の申し合わせで一応「再演可能」なものであるという意味である。ヲノサトルの得意技、ターンテーブルの針音をその場でサンプリングしループさせ、さらにメロディカの旋律がオスティナートとしてそれに加わる出だしはタイミングを合わせるのが至難の技で、それこそこれだけは何度も練習したものだが、このライブ録音でも決してスムーズにはいっていない。しかし、この壊れたリズムが良いといえば良いというか、むしろこちらの方が良い。そしてこの上に歌がのるわけだが、これはボコーダーによって、言葉の発音は人間がしゃべり、音程はキーボードで演奏したものが合成されたものである。これをボコーダー+ボーカル=「ボコカル」と呼んでいた。録音では小さくて聴こえにくいが、例えばメロディーの最後の発音をフリーズさせ、息継ぎなしにピッチを変えていくような「歌いまわし」はこのボコカルならではの効果である。
このユニットは結成当初から「壊れた言葉」、「壊れた音楽」というテーマにぼくをはじめ皆が興味をもち、このユニットのキャラクターとして考えていた。特にメンバーのひとりであるエリック・ライオンはまだ日本語が流暢に話せないため、彼に時代劇のような侍言葉を教えたりして「こわれたにほんご」を作り出していった。このユニットの他の曲、例えば「ケルンいきます」、「せっしゃワールド」、「すばらしいおとせかい」などはすべてこの趣味によって名付けられたものであり、この「かなしいこころ」の歌詞もこれを踏襲している。
設定は、日本にいる外国人労働者が故郷を想う・・というもので、これはぼく自身が外国に暮らし、外国人として親切にされたり、意地悪されたり、ビザの問題で困ったりした個人的な経験と、日本のぼくの新しい居住地、大垣という街に住むたくさんのブラジル人をはじめとする外国人労働者のことを考え、重ね合わせながら作ったものである。
なお、ユニット名「サイケデリックぶんぽう」の「ぶんぽう」は文法のことで、「壊れた日本語」についてはもちろん、新しい音楽的なシンタックスを模索する、そして近代の言語学にまで繋がる「ことば」の問題を意識して決めたものである。

歌詞:

にほんじんかたかたじけない、
こわれたにほんごかたじけない
せっしゃばてれんけとうだぜ〜、
せっしゃはかなしいこころです

もうすぐビザはきれますね

とおいくに、せっしゃのまち・・

いつもふあんたくさんします、
やさしいこころありかとします
しかしどちらにかえります、
せっしゃはかなしいこころです

もうすぐビザはきれますね

 

つらいきもちあるから、
みなせっしゃにたすける
どなたはせっしゃにまってるぜ〜、
せっしゃはかなしいこころです

もうすぐビザはきれますね

とおいくに、せっしゃのまち・・

 

『SendMailはインターネットによって電子メールを送る作品である。メールの送信に必要な、通常コンピューターのキーボードを使って行われる文字入力が、この作品ではすべて楽器の演奏によって行われ、またホストから送られてくる文字列は逆にサンプラー等のMIDI音源によって音として聴かれるというのがこの作品の仕組みである。
この「楽器演奏による文字入力」及び「文字列情報の音響化」のために、音程と英文字のそれぞれの規格であるMIDIとASCIIコードの変換表が用いられ、ASCIIコード表の小文字、大文字、数字や記号を、限られたサキソフォンの音域で書き分ける(弾き分ける)べく、音価の長短や、ピアノの音との組み合わせが考えられた:例えて言えばサキソフォンはキーボード上のアルファベットキー、ピアノは数字や記号文字を「書く」ための巨大なシフト、スペース又はリターンキーということになる。つまりこの作品で演奏されるすべての音は電子メールの文章のみならずコンピューターやモデム、ホスト・コンピュータに対するコマンドの文字列によって規定された結果である。
この作品ではメールの宛先や文章の内容、そして場所毎に異なるモデムのアクセスポイント等が演奏される度に変わるので、奏されるべき音(楽譜)も演奏会毎に異なることになる。録音は「ピエールブーレーズ氏宛メール、厚木バージョン」である。
なお、この作品は1995年秋吉台国際現代音楽祭の委嘱によってバスーンとハープの為に書かれたもので、サクソフォンとピアノのためのバージョンは改訂版として96年に神戸で初演された。』
とプログラムノートには記されているようにこの作品は「音楽的理由で音を選ばない」というぼくにとっても一番おかしな作品である。アイデアは単純だが、実際にコンサートで演奏すると技術的にサクソフォンのピッチ検出が非常に難しいことはもとより、会場の電話がゼロ発信だったり、アクセスした電話番号が話し中だったり、データ通信、音声合成、MIDI制御を同時に行うコンピュータが過負荷でとまってしまったり、様々な困難によってまともに成功しない作品なのである。それでもこの作品は失敗を繰り返しながら何度も演奏された。本当に失敗することが許され、そのことが意味をなす世にも珍しい作品だとぼくが考えているからである。

 

『SpeechManagerは、作曲家、音楽家という枠をこえて現代の音楽を模索する実験集団として結成された「サイケデリックぶんぽう」の作品である。ここでは話すことのプロフェッショナルでもあるモーリー・ロバートソンが三輪眞弘が用意した単純なリアルタイム・サンプリングシステムを用いて彼の持つ多様な技を音楽としてみせつける!(ことになっている) by だんちょう』
というプログラムノートを添えて発表したこの作品は「サイケデリックぶんぽう」に最後に加わったモーリー・ロバートソンを全面にフューチャーしたパフォーマンスで、解説にあるようにぼくが用意したリアルタイムで操作可能なサンプリングシステムを彼が手元で操作しながら行うものである。ぼく自身は、その必要は特にないのだが、「バンド」という見かけ上の、ステージにおける「絵柄」のために彼の斜め後ろでミキサーをいじってパフォーマンスを行った。歌詞は打ち合わせの際、あとからあとからモーリー・ロバートソンの口から機関銃のように飛び出してくるおかしい話をぼくが、「とにかく一度ストーリーをテキストに定着してほしい」と彼に頼んで、とりあえず彼が書き留めたものである。多分こんなものがなくても彼は面白いパフォーマンスをしただろうし、また、この演奏があったその時ならではの社会問題や話題が即興的にちりばめられていることは言うまでもない。
「音によってひとつの世界を構築する」のが作曲家というならば、この作品は作曲家として物足りないのだが、明確に意識していた作戦、「ほっといても彼は面白いのだから、邪魔しないでおこう」というもくろみはパフォーマンスを成功させるという意味では正しかったと思う。
コンサート当日はなぜか女子高校生がたくさん見にきており、ぼくは彼の斜め後ろで「言葉が過ぎなければいいが・・」とずいぶん緊張していたのを覚えている。


テクスト冒頭部分(抜粋)

さむいので     パパもママも セックスをした
   ふとんに入って  きもち、よかった
 
らっぱを吹いて きもちいい
  らっぱを吹いて らりぱっぱ
 
 ふとんに入って うどんを食べて      おいしかった
         you donno tablet aye ohshe gotta
you don't keep tabs ayeoh-sheee-got-to
tabz-on-oh-shee-go-to

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(C) M.ロバートソン