「音楽・テクノロジー・作曲と演奏空間」
(はじめに)
例えば現代の日本において、ただ音に耳を傾けて30分間何もせず音楽を「鑑賞」する人がどれぐらいいるのだろうか?・・もちろんこれが唯一の音楽の楽しみ方だ、などと言うつもりはないが、ぼくが知っている、そして大好きな多くの音楽作品はこのようにして聴かないと決して楽しめないものも少なくないのは事実である。人々にとって、コンサートなどの特別な状況を除けば、音楽を耳にするということは空気を吸うように当然で、逆に自分から集中して音楽に耳を傾けるということがむしろ珍しい音楽とのつきあい方であるように昨今ぼくには感じられるのである。
音楽においてもテクノロジーの発達は、大規模なPAやCDそして放送などのメディアによって、少なくとも音楽と呼ばれるものの音波による(!)体験を我々にとってより完璧で身近なものにしてきた。しかしふと振り返ってみると、かつて音楽というものが確かに担ってきた役割、音楽でしかあり得なかった体験、音楽に込められた文化や世界観や美などが驚くほど希薄になってきているように感じるのはぼくだけだろうか。もちろんこのような状況は音楽に限ったことでもないし、また最新のテクノロジーがぼくらに新しい表現や創造的な活動の領域を切り開いてくれていることに口を閉ざしておくつもりもない。ただ、このワークショップで試たいことは、高度なテクノロジーと共生する「新しい時代」をむかえつつある現在において、あり得るかもしれない新しい音楽の形に夢を馳せる前に、少しだけ「いま」に踏みとどまり、現在の状況を整理してみることである。そこで立てられている問いは極めて単純で明快だ:
 果たしていま、ぼくらは音楽に何を求め、音楽から実際に何を得ているのか?
 そしてテクノロジーは一体、それにどんな関わりを持つことができるのか?
これらに対してぼくにも用意ができている答えなどはない。むしろ様々な分野で活躍するゲストにこれらの疑問を率直に投げかけてみて、そこから浮かび上がる共通した何かを抽出することができれば、それだけでも大きな成果があったとみなすべきだと思う。ぼくらは、ある時代のある国のある文化のあるシーンの中で、その世界特有の語法や様式をマスターし、その世界に少しだけ新しく独自なものを加えれば表現が成立していた時代にもはや生きてはおらず、自らの表現そのものが本当に成立しているのかさえ何の確証も手がかりもないこの時代に、それでも何か新しいものを作ろうとしているのである。


1st day: Over view (Extended piano)
「ナンカロウを通して考える西洋音楽と日本のぼくら」

今更言うまでもなく、西洋の音楽は歴史的に常に最新のテクノロジーと共に発展してきた。その中でもパイプオルガンやピアノは当時の複雑かつ高度な技術の結晶であると同時に、連続する音程を音階というデジタルな階段に分割した鍵盤という、今風に言えば、専用のマン・マシン・インターフェースを備えた異様な楽器である。その昔、様々な楽器に特有の記譜法が共存していた時代に本来鍵盤楽器用の記譜法であった五線譜がヨーロッパ音楽のスタンダードになっていったことからも象徴されるように、ピアノに代表される鍵盤楽器はまさに楽器の王様であり、またヨーロッパ的な音楽思考のリフェレンスだと考えることができる。そしてこれらの記譜法や音階等は、本来まったく異なる歴史と文化を持つぼくらが小学校、いや幼稚園に入ってまず「音楽」として習得する(させられる)ものでもあり、また現在この国で耳にするほとんどの音楽の基準として機能していることを確認しておきたい。
ところで近年「再発見」されたといわれるナンカロウという作曲家にいきなり登場してもらったのにはふたつ理由がある。ひとつは彼がピアノロールによって無人演奏する自動演奏ピアノのためにひたすら作品を作り続け、音楽創造における非常に興味深い試みを行ったからである。そこでは作曲するということをはじめとする、音楽とイデア、音楽と記譜、作曲と演奏等における様々な問題が浮き彫りにされている。先にピアノを「異様な楽器」と表現したが、更に自動演奏機能を加えたピアノは、かつてはピアノロールという記録媒体を用いる機械であり、当然のように現在ではコンピュータ制御で可能になった、まさに「異様な機械」の横綱である。ナンカロウの行ったことが一体何であったのか、美術家の(作曲家ではなく!)中ザワヒデキさんがある文芸誌の特集でシュトックハウゼンの活動と並置、比較することで非常に明確にその分析を行っている。とにかく氏の立場から、音楽だけにとらわれない広い視点で現代の創作が抱える問題点について語ってもらいたいというのがふたつ目の理由である。

2nd day: Algorithmic composition
「演奏、聴取、テクノロジー」

テクノロジーと音楽について考える際に、ひとつの視点として冒頭に述べたようなメディア社会と音楽表現の関わりは見逃せない部分であるが、もうひとつの観点として創作現場におけるテクノロジー、つまり作り手の比較的私的な環境、道具としてのテクノロジーについて考えてみたい。
周知のように現代ではテクノロジーを使いこなすことによってぼくらは楽器がひけなくても、楽譜が読めなくても作曲することが可能になってきているし、また熱意さえあればそれを、その道のプロが作るものと同等な品質でCD等にまとめて発表することさえできるのである。ではなぜ、ひと昔前なら夢でしかなかったこのような可能性を誰もが競って試してみようとしないのであろうか? 理由は、まずそれほど多くの人は何が何でもそこで表現する理由というものをもたないからであり、また「次にあなたはこうしたいのでしょう?」とでも言わんばかりに懇切丁寧に用意されているソフトやハードのツールを使わされる過程の中で人はインスピレーションを失っていくからである。簡単に言えばその程度のよそよそしい「道具」との関わりの中で人はスポイルされることはあっても道具との関わりの中で新しいものを発見していくことはほとんどないのである。これは、例えばひとつの楽器をある程度弾きこなすことができるようになるまでに人はどれほどの時間と努力を必要とするかを考えてみれば当然のことではないだろうか。そして熟練した演奏家がひとつの楽器を自らの肉体の一部のように操る姿を目の当たりにするとき、ぼくらは眼前で起きていることの有無を言わせぬリアリティーと、努力というものによって人間はここまで達することができるのかという感慨に包まれるだろう。それはもうそれだけで得難い体験と言うに値する何かをぼくらに与えてくれる。
では、やはり多大な時間と努力がなくては音楽は作れないのだろうか?・・それはその通りだとぼくは答えるだろうが、ただ、それは決して従来の音楽に特化した「音楽の素養」というようなものではなく、表現とテクノロジーに対する冷静な洞察と終わりなき試行錯誤から始まるものだ。その時、テクノロジーは単なる「便利な道具」という次元を越えて、時には従順に、時にはぼくらの予測に逆らいながら、ぼくらの思考に様々な問題を突きつける「道具以上」の存在となっているはずである。コンピュータをはじめとする、僕らが手にしている新しいテクノロジーが、演奏家における楽器のような存在と測りあえるほどのリアリティーを持ち得た時、ぼくらははじめて手応えのある何かを始めることができるだろう。情報化時代の「もの」と切り離された「情報」はある意味で音楽におけるイデアの世界と似ている。コンピュータのアルゴリズムは「楽譜」という音響による建築物の設計図に比較できる性質を持っている。そのことについて、表現とテクノロジーについて深い洞察を続け、自らも様々な形態の作品を発表している佐近田さんの話を聞かせてもらいたいと思う。

3rd day: Performance
「即興と音楽を体験する空間」

友人がコンサートに行って「デカイ音でCDを聴いてるみたいだった」と感想をもらしたのがぼくには今でも印象的である。一体何が起こっているのだろう?もしその感想が真実だとすれば、コンサートという場は、そして演奏という行為は一体何のためにあったのだろう?一方、コンピュータ音楽のコンサートではコンピュータによってその場で生成される音響や人間とのインターラクションによって変化するシステムがよく使われるが、「裏でテープを再生するのとどこが違うの?」という感想をしばしば耳にする。言うまでもなく演奏者と聴衆の間にテクノロジーが多く介入すればするほど演奏行為と聴こえてくる音との関係は見えにくくなる。そしてそれがある一定の距離以上になってしまうと、もはや聴衆は演奏者が肉体を使って今この時、この場所で音を発しているという貴重な事実を感覚的に感じられなくなってしまうのだ。小さなキーを軽く押すだけで耳をつんざく大爆音を発生させることができる現代において、演奏はもはや「よりよい音を出すための」行為ではなくなっているのかもしれない。そして現実や肉体から切り離された音波の聴取を音楽の体験と安易に読み換えることによって音楽は急速に貧相なものになり、記号化していくのである。
そのような状況の中でDJ達は元気である。彼らはクラブという、通常のコンサートよりも小規模、親密で開放的な空間の中で他人の作った音楽を使って音楽空間を作っていく。そしてパッケージ化された音楽、つまりレコードなどを単なる素材として扱い、場の雰囲気にあわせて自由自在にそれらを編集、構成して行くメタレベルの音楽家とでも言えるわけだが、おかしなことに、しばしば彼らの「演奏」の方がよほど通常のコンサートにおける演奏より、ぼくらにとってリアルに感じられてしまうのはどうしたことだろうか?「心配するな、オレが付いている」という兄貴的な安心感をぼくらはDJに感じているのか、音楽という記号を自由に操る魔術師に見えるのか、クラブ空間自体が情報化社会全体の小さなメタファーとなっているのか?・・西洋音楽ではそもそも野蛮なものとして嫌われてきた打楽器(音)による強烈なビートという、最も原始的な音楽的要素を共通言語として生まれ続けるこのハイテク音楽(?)は確かに現在の音楽が近年放棄してしまった大切な何かを補うような形で生まれ、成立しているように思えるのである。構築され、記述され、スケジュール化された音楽を横目に他人のフンドシで相撲をとりながら、その場の雰囲気やノリには神業のように的確、俊敏に対処できる感覚と技を磨いている音楽家たち・・DJであると同時に作曲家、そしてパフォーマーでもあるヲノさんに現場からの視点でこれらの状況について、話を聞きたいと思う。

4th day: Analyse
「このワークショップで演奏される作品の分析」

例えば、J.S.バッハが書いたあるハ短調のフーガにおけるドから上のシまでの音程の出現頻度を統計的に調べた結果は一応その作品の分析結果と呼ぶことができる。しかしそれはぼくらにとって、その音楽を理解し、楽しむ上で何の助けにもならないのでサイテーのアナリーゼと呼ぶだけである。アナリーゼの基本は何より「なぜ作曲家はここでこの音を選んだか?」について知ることである。それは作曲家の個性以外の何ものでもない場合ももちろんあるが、彼が生きていた時代の様式や語法によって規定されていたものかもしれないし、想定されている楽器の限界によるものかもしれない。近代ではある作曲家が考案したシステムによって機械的に音が選ばれる場合も少なくないので、少なくともある音楽を理解する際にその仕掛けや、さらになぜ作曲家がそのような仕掛けを必要としたのかを考えることは音楽をより楽しみたいぼくたちに実に様々な、音楽に秘められた思想や思考を開示してくれる。もっとも、DJが今流行の音楽をオシャレにパクってその場にいる人々をにやにやさせるように、例えばバッハやモーツアルトが書いた作品の主題やメロディーに神の三位一体や十字架、フリーメイソンのシンボルが隠されていることはある程度知られているものの、その時代の体制に対する皮肉やあてつけ、個人的なメッセージ(愛する人の名前を音名に読み換えるとか・・)、当時の風習から当時の誰もが「にやにやする」理由を現代に生きるぼくらが知ることは極めて難しいことはアナリーゼの限界として当然のことである。
アナリーゼはこのように、調べ始めたら終わりがなく、忍耐が必要で難しい作業なので、ここはその道の専門家藤井さんにお任せしたい。(は・・!)

5th day: Space
「記録媒体と時間芸術の体験」

いままで何度も「音楽を聴く」と言わずに「音波の聴取」という表現を使ってきた。音波が耳に届けば自動的に音楽を体験したことになるはずだ、という安易な発想から距離をおきたかったからなのだが、現代に生きるぼくらにとって実際には音楽的な体験のほとんどが、この「音波の聴取」を中心に行われていると言って過言ではない。ここで言う「音波の聴取」とはテクノロジーを介してその時、その場所にいない人が発する音(楽)を享受するという意味である。ただしこれは単なる、ある生演奏の録音という意味にとどまらず、多くのポップスのCDのように生演奏の「記録」としてではない「作品」としての記録物も含めて考えている、というかむしろこちらが現代の主流と言えるだろう。そしてこのタイプの表現形式こそは近代のテクノロジーなくしては全く成り立たないものであり、それゆえに常に最新のテクノロジーが投入されて発達し、さらに商業的にも成功してきた分野でもある。これらを演劇やバレエなど、他の「時間(内)芸術」と区別して、CDなどのパッケージメディアをはじめとする、流行の言葉で言えばデジタル・コンテンツとしての音楽、「再生型芸術」と呼んでみようと思うが、振り返ってみればこのようなタイプの芸術や作家が生まれてからそう長い年月が経っているわけではなく、むしろ最近の話であることに留意しておきたい。
さて、このように定義してみるとすぐに思いつくのは映画などがまさにそのようなタイプの典型として、むしろ音楽よりはっきりとジャンルとして意識され、確立していることである。スピーカーしか見えない、ステージ上には誰もいないホールで人々が音楽を鑑賞するようなことはごく一部の電子音楽やコンピュータ音楽の世界でしか行われないが、無人の銀幕しかない空間に投影される画像を多くの人が劇場に集まって鑑賞することは今でも映画館では日常のことである。
そしてそれは「記録物」であるがゆえに基本的にいつでもどこでも鑑賞することが可能なものでもある。しかし、映画を映画館で見るのか、自宅のビデオで見るのか、音楽をコンサートで聴くのか、カーステレオで聴くのか、ウォークマンで聴くのか、これは個人の体験という観点からみれば見逃すことのできない大きな違いのはずである。クラシックやジャズのCDように比較的忠実にある出来事の「記録物」として捕らえられ鑑賞されるものはまだしも、最終的な「作品」として制作される音楽や映像においてこの問題を考慮せずに多くを語ることは難しいだろう。映画にとって劇場とは何なのだろう?音楽にとってコンサートホールとは何なのだろう?あるフィルムが自宅のビデオで鑑賞されるとき、映画館で見るのと一体何が違ってくるのだろう?そもそも作り手は一体どのように鑑賞されることを望み、何をそこで表現しようとしているのだろう?このような問いは一見簡単だが、少なくともぼくにはすぐに答えられない。しかしこのワ。ぼくが言うークショップにおいてこのテーマに触れずに終わることはできないという強い思いがぼくにはある この「再生型芸術」の影響力はあまりに巨大で圧倒的で、この新しい鑑賞形式が逆に従来のそれの受けとめ方をも根本から変えてしまっているようにさえ感じられるからである。まさに映像の分野でこのような問いを発し続け、意識的な作品を提示している前田さんに話を聞かせてもらいたい。

みわまさひろ