対談 三輪眞弘×水野勝仁「コンピュータがもたらした世界」

会期中に「コンピュータがもたらした世界」と題して、三輪眞弘氏とメディアアート研究者の水野勝仁氏によるトークイベントが行われました。 「逆シミュレーション音楽」のもつ身体性や人間と機械のインターフェースに焦点を当てながら、およそ60分にわたって、さまざまな議論が交わされました。

司会 今回お話いただきますのは、作曲家でIAMAS教授の三輪眞弘さんと、 メディアアート研究者の水野勝仁さんです。本日は「コンピュータがもたらした世界」 というテーマでお話をしていただきます。よろしくお願いします。
水野 よろしくお願いします。
三輪 よろしくお願いします。まずは今日どんな感じでお話を進めていこうか、というのを。
水野 そうですね。みなさん作品はもう御覧になりましたか? 三輪さんが作曲家というのはもうご存知だと思うのですが、じゃあ私がメディアアート研究家といわれて、 何をやっているのかというのを。この作品を見た中でMacなどに映っている映像も含めて、 実はこの作品のなかで、普段は動いているけれど動いていないものがありますが、 それが何か気づいた方いらっしゃいますか?普段はよく動いているものなんだけれども、 この会場内では微動だにしないものがあります。いま、ちょうど《Thinking Machine》は止まっていますけれど、 ああいう状態で意図的に止められているものが存在しているのですが。 三輪さん分かりますか?ヒントはですね、物体ではなくて、Macの画面の中にあります。
三輪 ソフトウェアは動いているし、映像も動いているし…えっと、分からない。
水野 Maxとかポチッと押したところで止まっている。僕はマウスとかカーソルとかの インターフェースの研究からメディアアートに移った人間なので、 作品を見た中で最後に誰かがクリックして止まったカーソルというのが、とても気になって、 そういうことをきかっけに研究を行っています。なので、音楽というよりはインターフェースという、 たぶん皆さんもマウスとかを使ってコンピュータと接しているだろうし、スマートフォンなども接している。 そういったコンピュータと触れ合っている形の部分から、三輪さんに質問していきたいなと。 なので音楽寄りというわけではないかもしれませんが、そこからまた音楽に引きつけていけたらいいなと思っています。
三輪 はい、分かりました、よろしくお願いします。
水野 よろしくお願いします。
西洋音楽における身体について
水野 まず、三輪さんの作曲では、その中で西洋音楽の歴史の中で身体というものの多くが、 バイオリンを弾くとかピアノを弾くとか特殊な技能のスキルアップを求めて、 演奏家がいるのを一度リセットしようというかたちで逆シミュレーション音楽というのをやられていると、そういう認識がまずありますね。
三輪 はい。それはかなり意識的にありました。というのは、現代の音楽というところで、 西洋の伝統的なものから現代のものまで。つまりの僕も音楽大学で作曲を勉強したわけなんですけれど、 一方では新しい試みをやれ、新しいチャレンジをやれと言っているのですが、そこで発表するメディアっていうのは、 例えばオーケストラならオーケストラ作品を書く。ただしオーケストラというのは非常に制度的に確立していて、 100年前からほとんど編成もなにも変わってないわけですよね。そのなかで新しいことをやれと言われているという、 非常に大きな矛盾を感じて、そのパレットが全く同じものなのにそこで新しいものを、というのはちょっとそれは無理だろうと。 そういう考えが一番大きいところです。もう一つは、こんなものを人間が弾けるのだろうか、 という難しい楽譜でも今の優秀なプレーヤーは本当に練習すれば弾いてくれるんですけれども、 逆に言うとちょっとでも記譜の仕方を変えたら途端に読めなくなるわけですよね。 それくらい楽譜と自分の演奏みたいなものが身体化されている。技術はものすごいレベルにあるんだけれども、 ひとたびその梯子を外しちゃうとゼロ地点に誰もが戻ってしまうと。でもゼロ地点を覚悟の上で、 磨き上げられた技芸みたいなものを別にいらないと言っているんじゃなくて、 断念してでもやっぱりそのゼロ地点から始めなきゃいけないと、 新しいことはできないんじゃないかと、そういうふうに思い詰めたわけですね。
水野 演奏家の方にはそのような要請を逆シミュレーション音楽で行っていますが、 三輪さん自身の作曲において紙と鉛筆で記譜していた時と、 Maxの画面を見ながらマウスを使ってポチポチと数値を書いていくということをやり始めた時とでは、 考え方というのは変わることがあったのでしょうか。それとももう逆シミュレーション音楽というのは、 その西洋の伝統の中で自分の身体のやっていることはそれほど、行為は変わっているけれども、 その伝統というアイデアだけで変わっていったのか、それともコンピュータを使っていくなかで、 紙と鉛筆からマウスとディスプレイに変わって、そこでやっていることもまた身体から考えに影響されたのか、 という影響関係を聞いてみたいのですけれども。
三輪 例えば僕の場合だったらプログラムを書くとか、それを楽譜ソフトにトランスさせるとか、 そういうところでは普通のプログラマーとか事務処理に使っている人とかと基本的には変わりません。 よく冗談で言うのですけれど、僕が使っているソフトウェアの開発環境はMaxというソフトウェアですが、 見方によっては、じゃあMaxの開発者の手の上で僕らはバリエーションを作っているだけじゃないかという言い方が考えられるわけですね。 でももうコンピュータを作ったひとの手の上で僕らは思考しているし思考を制限されているじゃないかと言い始めたらキリがなくなってくる。 でも、それはそういうものなんだということは認識しておきたいというのはあります。 つまり素晴らしいメロディーを霊感で得て書き留めるという形では、もはや作曲というのは成立しないんだ、というものが認識としてあります。
水野 ということは、Maxを使っているというのは、所与の道具として使われているという感じに近いんですか?
三輪 道具はどんなソフトウェアでもそうですが、考え方を導くと言ったら良い意味だけど、 発想を規定したり制限するといった要素が必ず含まれるわけですよね。だからこそ、 たとえば僕は楽譜を使う時はシーケンサーソフトは使わない。そうではなくプログラムから作るわけです。 それだって別に自慢できる話じゃなくて、その程度の問題なのであって、 プログラミングの方がとんでもない発想をカタチにしやすいというだけのことで。 やっぱりそれでも用意されてるものがあればそれを使うだろうし、 その辺のグラデーションというか曖昧な領域というのがあるのかなと思います。
水野 特にマウスとかを使ったことによる身体の変化というのは、三輪さんのアイデアには意識的には出てきてこないと。
三輪 そうですね、特に僕自身がタイプとして身体的なタイプではないので。 よく作曲の例えで言うんですけれども、基本的にテロリストが爆弾を作るようなもので、 こうしたら爆発するはずだぞというのを、時間を掛けてじっくり確実に考えていくようなことが作曲なので、 それほど身体性というものは作曲においてはあまりないかもしれませんね。

水野勝仁
1977年生まれ。名古屋芸術大学他で非常勤講師、インターネットリアリティ研究会メンバー。 ユーザ・インターフェイスにおける「マウス」の研究から、エキソニモ《断末魔ウス》を経由して、 ディスプレイ上の「カーソル」やGIFに代表される圧縮画像、及び「ポスト・インターネット」という状況を考察するようになる。 主な論文に「あいだを移行する「↑」:エキソニモ《断末魔ウス》、 《↑》におけるカーソルの諸相」(『映像学』第85号. 日本映像学会. pp.20-38. 2010年)など。
http://touch-touch-touch.blogspot.jp/ 


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