東洋では、画家と対象との距離を厳密に記述する、合理的遠近法はついに誕生しなかった。
平安絵巻に代表されるように、画面全体は空の上から見下ろされ、いずれの人物、情景も同じ 大きさ、鮮やかさで描かれている。ここには、西洋のような、一定不変の視点は存在しない。



画家の目は、画面の中を自由に移動し、各々の対象に触れるほどの距離まで接近して、描いている。その視点は、いわば画面上のあらゆる点に偏在し、あらゆる時間を含んでいる。だからこそ、見る者だれもが、好きな場面を選びだし、そこに自分の視点を重ね合せることができる。このとき作品世界は、多くの目によって、同時に見られた世界の「積分」として存在する。
東洋の遠近法は、特定のだれかに属さないことによって、だれに対しても開かれた世界の見方を、用意しているのである。

(高階秀爾「日本美術を見る目 東と西の出会い」岩波書店 1991  諏訪春雄「日本人と遠近法」筑間書房 1998)



The Way (c)Tamas Waliczky and Anna Szepesi, 1992-1996

「The Garden」(ザ・ガーデン) (1992)
タマシュ・ヴァリツキー
2歳の女の子が庭の中で遊んでいる情景を描いたビデオ作品。
「水滴遠近法」と呼ばれる手法を用いている。作品中の世界は子供を中心とした球形をなし、全てのものが子供との距離や子供の興味に応じて様々に変形する。「ガーデン」は一人の子供の視点を通して、主体とそれを取り巻く環境とのダイナミックな関係を表現している。



人間は、空間の中につねに自分にとっての意味、機能を投影している。メンタルマップ(主観地図)はその脳内イメージの表現である。
メンタルマップの視点は、その空間で現実に生活する、ある個人に帰せられる。何を見て、何を見ないか。何をどのように見るか。全ては彼の中に積み重ねられた、経験や記憶によって決定され、日々作り替えられる。自分をとりまく膨大な事物の中から、その時、その人によって選びとられた世界の見方。これは「私」が発見する新たな遠近法=主観的遠近法といえるだろう。
見る人の数だけ、遠近法があり、世界がある。あるものは解像度1mで「音楽」にフォーカスし、あるものは5kmで「政治」にフォーカスする。また、あるものは数世紀のスパンで変わらない物だけを捉える…。
ネットワークを始めとする技術は、個人のもつ世界像を、現実の場所性とかけ離れたものへと歪ませている。その一方で、コンピュータ技術は各個人の内面に限定されていた主観的遠近法を、多くの人に共有できるルールへと変換しはじめた。(「ガーデン」はその鮮やかな例である)

無数の遠近法が共存し、無数の「世界への窓」が開かれている時代。今や、どの窓から見た世界も、等しく現実であることに、我々は気付き始めている。

("都市のイメージ The image of the city"(Lynch, 1960)) (グールド P.・ホワイト R. 山本正三・奥野隆史(訳) 1981 頭の中の地図 - メンタルマップ - 朝倉書店)

メンタルマップ

ある空間についての心的イメージを描いた地図。本人にとって重要な部分は詳細に描かれ、そうでない部分は省略される。場所と場所の距離、つながり方も主観的なものである。
左の図はIAMAS のある学生の生活空間。






The Fisherman and His Wife