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誰かの視点で見た世界
―――あなたはこれまで「ガーデン」を始めとして、個人の「主観的な知覚世界」を視覚化するための様々な試みをしておられます。これらの作品コンセプトを簡単に説明して頂けますか?
タマシュ 自分の中に、棲みついて離れないアイデアというものがあります。頭から決して離れず、いつも考えつづけているようなもの。私にとっては、そういうものが最も重要なアイデアなのです。
例えば、最初に「ガーデン」の構想を思い付いたのは、実際に作り始めるより5年も前のことでした。
最初に私が考えたのは、とても奇妙な視点を表現するアニメーションを作ろうということでした。誰かが世界の中心にいて、回りの物体の大きさは、その人の意志によって変わる。つまり、その人物との距離に応じて、全てのものが大きくなったり小さくなったりすることになります。しかしその当時、私にはこれを作るための技術がありませんでした。
そして、私に娘が生まれたとき、このアイデアが再び蘇ってきました。娘と暮らし始めると、この家の中に突然やってきた第3の人物から、私は「認識」について実に多くのことを学びました。子供にとっては、全てが未知のものです。ですから、彼らがどのように世界を認識し始めるのか、観察することができるのです。
私の娘が1歳になったとき、とても面白いことがありました。彼女は公園に行ってブランコに乗るのが大好きだったのですが、ある日、私は家で小さな模型のブランコを作りました。娘はそれに乗りたがりました。実際には、娘はブランコより3倍も大きかったのですが、彼女はそのことに気付かなかったのです。
私は、空間を理解するための知識について、考え始めました。私たちは生まれつき、整った空間認識のシステムをもっているわけではない。全てのものは空間の中では流動的であり、人はそれらの大きさや距離について、学習しなければならないということです。
そこで、私はこの奇妙な遠近法の映画は、娘にぴったりだと思いました。それに、私にとっては、作品がいつも個人的な背景をもっていることが大切です。私の作るものは全て、家族や友人や、親しい人に関係があります。
こうした関係性、特に私が娘のことが好きだ、という点はとても重要です。完成した映画の中では、まず、娘の視点(遠近法)が回りのものをゆがめる様子が見えます。次に、このゆがんだ世界をモニターに投影する別のシステムがあり、これが私です。もし、娘自身の完全な遠近法を作ろうとしたら、それは閉じた球になるでしょう。娘の視覚世界が彼女の回りを球状に包んでいるからです。この世界をあなたに見せるためには、私のシステムを使って別の画面に投影しなければなりません。
ですから、詩的な表現を使えば、私は愛する娘の目を通して世界を見ている、ということができるでしょう。
「ガーデン」の構造は、とても複雑なヴァーチャルリアリティ(VR)といえます。唯一の違いは、通常のVRの装置を使っていないことです。これも重要な点ですが、もしVRを使って、例えば、ヘルメットをかぶったりして、同じように一人の遠近法を再現することもできます。しかし、その意味は全く違います。
もし、私がそのヘルメットをつけたら、私自身が世界の中心になります。つまり、私が全てをコントロールすることになり、一種の偏執狂、あえて強い表現を使えば、ファシズムに近いものになるでしょう。私、私、いつも私、という風に。
私は、誰か他の人の世界を見せたかったのです。私が好きな人の世界を。ですから、この映像のもう一つのメッセージは、「寛容」です。他の人の夢を見たり、他の人が世界を認識する方法を知るのも、面白いんじゃないか、ということなのです。
遠近法=世界を認識するシステム
―――あなたの作品の多くが、遠近法のテーマで作られていますが、なぜ遠近法にそれほど興味をもっておられるのでしょうか?
タマシュ 私は、遠近法というのは、その時代の人類がどのように世界を認識しているかを示す指標であると思います。
人々は世界を認識しようとするとき、何らかの手段でこれを記録しようとします。世界を再認識(re-recognize)するには、そのためのシステムが必要です。ですから、全ての文化にはそれぞれ、独自の遠近法が生まれたのです。
私が遠近法の作品を作るきっかけになった出来ごとがあります。ある時、美しいルネサンスの絵を見ました。それはとても奇妙な絵で、他のルネサンス絵画とは全く違っていました。画家の名前は忘れてしまいましたが、イタリアの絵だったと思います。そこには、12歳くらいの少女が、笑いながら自分の描いた絵を見せているところが描かれていました。子供の落書きです。
なんと、彼女の落書きは、私の娘の落書きとそっくりだったのです。少女は、おそらく14世紀頃、私の娘の400年から500年前に暮らしていたはずですが、現代の子供と同じ絵を描いていました。それだけでなく、日本の子供の絵も、ヨーロッパの子供の絵と全く同じものです。
私が感じたのは、最初に絵を描くとき、つまり世界を認識し始めるとき、人間は完全に同じだ、ということです。みな、同じことをします。成長するにつれ、自分の時代の世界を視覚化する方法を身につけ、そこから新しいシステムを作りだす者もいます。こうして、世界を見る方法がばらばらに分かれていくのです。
もちろん、エジプトの遠近法は中国やルネサンスの遠近法とは違い、今私たちが使っているものとも違います。
私は、なぜ多くの人が、遠近法で最も大事なのは現実感だと信じているのか、不思議でなりません。そして、写真やビデオを撮るときも、今行われているのが唯一絶対の方法だと思いがちですが、それはただ、私たちの頭の限界にすぎないと思います。もし別の文化の中にいれば、全く別の方法で世界を見るでしょうし、こんな機械(カメラ)を作ることには興味をもたないでしょう。
コンピュータが開く新しい視覚
こんなことから思い付いたのですが、今、私たちはコンピュータという新しいおもちゃをもっている。そう、これはまさに新しいおもちゃです。コンピュータは、カメラとは違う仕組みで動くので、消失点や視点を自由に変えられます。それらはただの数字であり、パラメーターに過ぎないからです。
カメラは、レンズのある固定したシステムで、眼球をまねたものです。眼球の機械的な模型なのです。ビデオは、もう少し複雑です。ある面では、ビデオは眼球をまねていますが、もう一面では眼球の背後にある脳をまねているからです。
でも、コンピュータには、何もモデルはありません。だからこそ、視覚の方法を自由に変えられるのです。私は、高額なソフトウェアがどれもこれもカメラやビデオをまねようとしているのに驚きました。そこで私は、「よし、コンピュータが新しい思考の道具ならば、これを使って遠近法で遊んでみよう」と思ったのです。
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