自己身体と地球とのアナロジー
―――ICCの地球の作り方についてですが、どのようなコンセプトで作られたのでしょうか?パワー・オブ・テン、みたいな作品への興味から、と伺っているのですが?
関口 もともとあれをやる際に、橋本くんがパワー・オブ・テンの時間バージョンをつくりたいという話しをしていました。今回のオゾンについては、僕自身が地球の作りかたというシリーズで、4年前に考えていたプランがあったので、ちょうど(僕が)垂直方向、(橋本くんが)水平方向の関係でパワー・オブ・テンを見せられるかなということで、一緒に展示しようという話しになりました。
表現方法としては自分のアナロジー、自己身体のアナロジーを、直接肉体を使わないで表示できるような表現ができないかなと思いました。
肉体そのものは表面と質量からできている。それで、人間自身は自分の表面、皮膚を外側からしか眺めることしかできないけれども、自分自身の質量にかんしては、肉体の内部で考えている。同じく、私たちは、地球の表面しか見ることができないし、たかだかその薄い表面で、生命を営んでいるわけです。
つまり、人間が、地球表面に住んでいながら、(全体である)地球というものを考える関係と、(自分自身の一部である)脳の中で、自分の全体、表出質量である肉体について考えるという関係が、非常に似ているんじゃないかな、アナロジックな入れ子構造になってて面白いなと思うんです。
構造的にはそういう関係なんですけど、面白いのは、あれだけ体を使ってると、だんだんやってる行為とか見てるイメージとかは実はどうでもよくなって、自分自身の内部のほうにイシキが移っていくんで、その姿をたとえば、端から見ている関係というのも非常におもしろい。
―――その、自分の体を酷使するという体験方法には、どう言う意味があるんでしょう。
結局情報をみるという行為と肉体を使うという行為の関係に、直線的な関係があんまりなくて、ただのきっかけにすぎないと思っています。
身体自体はその、自分の行っている行為について考えないときほど、身体のセンターに意識がいくという関係があるとおもっていたので、それ自体を作品の構造の一部にしたかったんですね。
身体の内部世界を探る
―――アートラボの「分離する身体」については、どのようなコンセプトでしょうか?
あれは、全然別な考え方なんですけど、地球の作り方が構造的な関係で何かを見せようとしたのにたいして、分離する身体の方は、同じ感覚をもう少し主観的な方法で表示しようとした。例えば自分自身の存在感だとか、肉体性とかを、どのくらいパラメトリックに数学的に表示できるかな、というのが(制作の)一番のベースになってます。
例えば、修行僧が自分について、何かを目をつぶって考えているとき、他人からは、(内面の状態は)一切わからないわけですよね。自分の肉体についての真理を悟ったとしても、確実に何が行われたかというのを残す手段は存在しえない。でも実は、その中でいろんな肉体の変化であるとか考えの変化であるとか、そういうものが行われているわけで、実際には何かが事実として存在しているわけなんです。できれば、その途中の過程でのパラメトリックな例を存在させるようなことを、作品化できないかなということです。
―――皮膚のなかの内部世界をサーチする、ということでしょうか。
だから、現実的には同じことを表現しようと思ったら、修行僧がやっているやり方を、「こういうやり方だと、発見できますよ」といって見せるのがこれまでの方法ですし、そういう形で何千年も継承しているわけですけど、そこにメディアを介在させたらどういうやり方があるのかな、ということで始めたんです。
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