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ビエンナーレの舞台となる岐阜県大垣市をご紹介します。

大垣市のあゆみ

2006.09.13

大垣は江戸時代、戸田氏十万石の城下町でした。中山道から東海道に抜ける美濃路は利用度が高く、大垣はその要衝として栄えました。現在の人口は16万6千ほど。西の伊吹山をはじめとする美しい山並みに囲まれ、豊かで美味の水に恵まれた静かで落ち着いたまちで、松尾芭蕉の『奥の細道』の結びの地としても知られています。近代では繊維産業が繁栄を誇りましたが、近年は岐阜県のIT戦略の本拠地として企業集積ソフトピアが展開し、IAMASがその人材育成の役割を担っています。

Date: 2006.09.13 04:51 |

大垣城

関ヶ原の合戦で西軍を率いる石田三成の本拠地となったこの城は天正13年(1585)の築造と伝え、天守は珍しい四層造りで、その優美から数少ない国宝の城のひとつに数えられていましたが、残念ながら戦災で焼失、現在のものはRCによる再建です。この地に最初に城が築かれたのは16世紀初めと言われますが、それはもっと規模の小さいものであったと考えられます。城とそれを囲む武家屋敷、商人町の全貌は、城のすぐ近くにある郷土館に展示してあるかつての大垣市街の復原模型を見ると良いでしょう。
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Date: 2006.09.13 04:50 |

船町港跡と住吉燈台

旧市街の南西端にかつての大垣の港の跡があります。昔はこの一帯に船宿が立ち並び、水門川をくだって桑名や三河に行く船が出ていました。『奥の細道』の旅のあと、伊勢に向う芭蕉もここから乗船して桑名に向ったのです。昭和初期でも年間、1万からの舟の往来がありましたし、戦後もなお、蒸気船が桑名への客を運んでいました。舟の航行安全を祈願して住吉神社が勧請され、いまも残る燈台は住吉燈台と呼ばれています。ビエンナーレのシンボルマークは、この燈台の形をデザインしたものです。
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Date: 2006.09.13 03:55 |

奥の細道むすびの地

『奥の細道』の旅は大垣で結ばれています。芭蕉はその生涯に4度、大垣を訪ねており、元禄2年(1689)のこの旅は3度目にあたります。大垣には、谷木因、近藤如行など、芭蕉の親しい俳友が居り、また江戸詰めの大垣藩士にも彼の弟子になる者が多く、蕉風は美濃一円に広まりました。芭蕉は秋、大垣の友に別れての桑名への旅立ちに際して「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」と詠んだのです。いま芭蕉の舟が出た港の一帯は芭蕉翁記念の公園として整備されており、近くに奥の細道むすびの地記念館もあります。
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Date: 2006.09.13 01:56 |

無何有荘

幕末の大垣藩の財政を立直し、維新前後の政局にあってみごとな舵取りで藩を安泰に導いた小原鉄心は、こよなく梅と酒を愛したひとで、城北の林村(現林町)に風雅な別墅(べっしょ)を営みました。これを無何有荘(むかうそう)と命名したのは彼が私淑した禅僧、鳳雪爪(おおとりせっそう)で、中国の古典『荘子』に拠ったものです。この別墅は彼が公務から逃れて悠然と浩気を養うところであり、また知友と天下の形勢を談じる場所でもありました。いまその一部、大醒木射(たいせいしゃ)のみが、船町港跡近くの全昌寺に保存されて、幕末の文人趣味建築の面白さを伝えています。ちなみに雪爪は当時、全昌寺の住職であって、鉄心の墓もここにあります。
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Date: 2006.09.13 00:00 |

ソフトピアジャパン

2006.09.12

岐阜県がIT関連の研究開発型の企業集積を目ざして拠点開発した新街区で、JR大垣駅の東方2キロほどのところに位置しており、駅から15分おき位にバスの便があります。電車からも二つの塔が望めるセンタービルは黒川紀章の設計、それ以外の建物も皆、いっぷう変わったデザインです。建設されて11年目、すっかり緑も根付いて落ち着いた雰囲気になっています。センタービルの最上階には誰でも自由に入れる展望台があり、大垣全市が一望のもとに見渡せます。
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Date: 2006.09.12 23:07 |