「作者は誰なのか」と三輪眞弘は問う。指示書の考案者が存在するにせよ、 音楽の指示書に当たる楽譜の指 示内容と比較して、作家の自由度が極めて高いという事実についてどのように考えているのかという問いである。それに対して前田は、音楽を例に挙げた場合、簡単な進行に基づいて即興演奏を行うジャズのような表現に近いのではないかと答える。
続いて参加作家の一人である池田泰教が本作品に取り組んだ際の心境を話す。自由度が高いと言えどもルール(指示書によって決定された撮影条件)は映像制作の自由を制限するものとして働きかける側面を持っており、それに対する窮屈さは感じている。しかし創造的な作業としてルールをどのように捉え直すか、それに対してどのような態度を取るかという解釈(あるいは倫理)の段階がある。ルールは最終的に提出される作品にとっての制約にはならないのだ。この一年の間に池田は『BYT』シリーズを2作発表しており、1作目が制作されたのは5月中旬だった。震災直後から約2ヶ月間、福島県郡山市に住む家族への対応に傾注していたが、それが一段落し、もう自分にできることがなくなったと感じたそのタイミングで1作目に着手したということが話された。
安藤泰彦からは、2011年の日本という時間性および場所性がルールベースドのクリエイションに対してかつてとは異なる意味合いを与えたのではないかという指摘。つまり様々な意味において制作が困難な時期にあって、このような手法が作家たちに対して制作の場を与えたということが言えるのではないだろうかという指摘である。事実、前田の元に寄せられたアンケートには制作依頼に対する感謝の意が記されていたものも多くあった。しかし中には各々の理由によって依頼を断る作家もいたという。
前林明次の感想はおよそ以下のように要約される。それぞれ5分の映像の中に、物理的な時間の流れを見つけるのが難しかった。昨日と明日に挟まれた現在性というよりもむしろ、全体が大きな過去性に包摂されているように感じた。そしてそのことはおそらく、このオムニバス・ムービーがそれぞれの作家個人の表現というよりは、匿名的な視線に曝される「日本」という場所の記録であるという印象に結びつき、3.11以後の全体的な雰囲気の中で、昨日と明日の境界はその有効性を危うくしている。
このような匿名性を引き継いで小林昌廣が言及するのは、鑑賞者にとっての映像の受容の傾向だった。今回のセレクションは8作品中5作品が3.11関連の作品であり、3.11を直接に扱っているわけではない残りの3作品についてもわたしたちは3.11に紐付けて見てしまう。わたしたちの眼前に立ち現れるのは、作家性を希薄化する一層大きな何ものかである。一方で小林は指示書について、自由を巡る問題としてこれを捉え、『BYT』シリーズは自由と不自由の境域に見出すことのできるものなのではないかと問う。
最後に参加者からの質問がひとつ。高嶺格作品『VOICE OVER FUKUSHIMA』におけるテロップの効果をどのように考えているか。「最初に高嶺の声が確認できるので、その声が頭の中で鳴るような効果があったのではないか」という返答。
土本典昭の『原発切抜帖』(1982)を参照しつつ前田が語るのは、失われてゆく記憶に対する映像の可能性である。そのとき、上映という視聴形式に期待されるもうひとつ別の側面が浮上するだろう。すなわち映像は「見られる」ということをより強く意識する社会的な作品とならなければならない。作家に制作の機会が与えられるだけではなく、作品には見られる機会が与えられなければならない。その意味で、「指示」ではなく「指示書」として、声を離れ共通認識へと内面化された匿名の(そして極めて前田的な)ルールによって作品群が形成され、個々の作品を他の作品との結び付きの中で観測するという次元を持つこのシリーズは、わたしたちの情動の共鳴を発見すべく「見られる」ための有効な手だてとして機能する可能性を秘めているのである。
(佐原浩一郎/IAMAS 研究生)