IAMAS Graduate Interviews

INTERVIEW 014

INTERVIEWER 小林昌廣 IAMAS教授
#2019#ART#COMTEMPORARY DANCE#GILLES DELEUZE#PHILOSOPHY

GRADUATE

佐原浩一郎

哲学研究者

芸術との出会いが開く哲学の可能性

哲学が芸術と出会った時に何を強いられるのか。そして普遍学と言われる哲学にも外部との出会いによってまだ開かれる可能性がある。
佐原浩一郎さんが主な研究テーマとしているフランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、そうした可能性について様々な考察を行ってきました。
科学的知性と芸術的感性の融合した表現を追求するIAMASにあって、哲学を学ぶ佐原さんが何を強いられ、どう開かれたのか。またはIAMASという場が、佐原さんという“異物”によってどう開かれたのか。
IAMASでの主査を担当し、医学、哲学、芸術に精通する小林昌廣教授が話を聞きました。

哲学を研究するために入学した異色の存在

小林:佐原君は何年の修了になるんですか。

佐原:2010年の入学なので、2012年に修了しました。

小林:大学院修了後は研究生になったんですよね。それで、なぜIAMASへの進学を決めたんですか。

佐原:当時の僕は20世紀後半のフランスの哲学者ジル・ドゥルーズに、特に彼が書いた『シネマ』という本にそのときは関心を持っていました。何か情報がないかと探しているなかで、読書会をやっているというページを見つけて。それがIAMASだったんですよ。吉岡洋先生が主催されていた読書会だったと思います。

小林:特に大学で哲学を学んでいたわけではなく、好きで『シネマ』読んだり、映画を見ていたりしていたんですね。それでそういうことを勉強している場を見つけて、結果的にそれがIAMASだったと。

佐原:そうです。それでOPEN HOUSEに来て、思想系のゼミを見学させてもらったんですが、それが小林先生のところでした。だからIAMASがどんなところなのか全く知らずに、『シネマ』の研究ができるんだろうという感覚で進学を決めました。

小林:そうでしたね。既に吉岡先生は他大学に移られていたので、僕がその後を引き継いで人文学、とくに哲学系の分野を担当していました。読書会も引き継いでいたので、かなりピンポイントで僕のところに来たんですよね。
でも、『シネマ』の研究をするといっても、映像の研究をするとか、自分自身で映像を撮るということではなかったんですよね。

佐原:映像を作っていた経験はあるんですけど、それよりも理論の方を好きになりました。だから映像制作ではなく最初からドゥルーズの研究をするためにIAMASに来たということです。

コンテンポラリーダンスを、哲学を使って読み解く

小林:佐原君の影響も間接的にはあるのかもしれないんだけど、作品制作と論文の執筆を行うというIAMASなりの研究の形がある中で、ある時期から論文一本に絞ってやっていくという学生が時々いるんですよ。ただ佐原君のように、最初から論文だけで卒業しようという人は非常に珍しいですよ。
入り口が『シネマ』なので、最終的な修士論文のテーマはドゥルーズを中心とした哲学と映像表現、芸術表現でしたね。実際にはダンスでしたが。
芸術表現と哲学を普通に結びつけると、美学とか芸術哲学という非常にオーソドックスな領域になりがちだけれども、結果的にそうならなかったのは、やはりドゥルーズという哲学者を選んだからというところがあるのかもしれないですね。

佐原:そうですね。ドゥルーズはおそらく、哲学が芸術というものと出会った時に何を強いられるのかということを重視していたんだと思います。
ある種の普遍学のような役割を演じなければならないかもしれないような哲学が、外部のものと出会うことで何かを強いられる。普遍学だと理解されかねないものにさえまだ開かれる可能性があって、と言うとパラドキシカルなんですが、まあドゥルーズはその可能性を発見させるものに芸術を割り振っているということです。

小林:普遍学ないし形而上学における様々な普遍性。例えば概念や言語の普遍性というものでは普遍化し得ないものがある。その普遍化し得ないものを表現で埋めていくという作業がドゥルーズには要請されていたという理解ですよね。

佐原:そうです。表現という言葉は、ドゥルーズの哲学の中でもとても重要なものです。要するに何かを表現する、そのときにわたしたちは、そこで直接的に表現されているものだけではなくて、直接的には表現されていないようなものも同時に表現している。ドゥルーズはそこに普遍化し得ないものを見出しているんだと思います。

小林:修士論文の中でおもしろかったのは、本来は出会わなかったであろう、ドゥルーズという哲学者とベルギーのコンテンポラリーダンスのカンパニーであるローザスにどのような交流があるのかをバーチャルに作り出したことです。

佐原:ダンスと哲学を重ね合わせるじゃないですけど、先ほどの「外部によって哲学を開かせる」という言い方に合わせて説明すると、ローザスという、非常に高く評価されているコンテンポラリーダンスのカンパニーがあって、アルゴリズムを使用したりミニマル・ミュージックを取り入れたりして偶然性を導入しながら、いわゆる既成の環境を抜け出そうとしている。そうしたダンスをドゥルーズの哲学で読むということを試みたということですね。
ドゥルーズが『差異と反復』などで提出している総合的なシステムみたいなものを別のジャンルに移行する際、どうすれば最もその可能性を担保できるのか、あるいはそのような移行自体そもそも可能なのか、という議論があります。つまり、その応用は単なる一般性に還元されてしまうんじゃないかという危惧ですね。そうしたことを踏まえた上で、IAMASでは自分なりに研究していました。

小林:哲学は、詰まるところ思考実験なので。哲学に将来性があるとするならば、一見マッチしないような要素同士による思考実験をやってみて、哲学のあるいはダンスのそれぞれの可能性を予見していくことだと思いますね。
だからいわゆるドゥルーズ語を使ってダンス語を翻訳するみたいなことをしていても生産的ではないし一面的だという意識は常にあったので、どうやって対峙させるかとか、僕の言葉で言うとブリッジング、架橋させるかというところが非常に重要だと考えていました。
要は、架橋は真ん中からはできないんですよ。両側の橋梁から少しずつ進めていって、真ん中で出会うという作り方しかない。自分の手元のところから少しずつ離れていって、向こうも同じようなことをやっていて、どこかでぶつかる。いつもきれいな橋ができるわけではなく、交差したり、接したり、それこそその可能性や自由がおもいしろいところでもある。
ちょうど佐原君が書いていた当時のローザスは、最もいい時期の終盤あたりだったと思うんですよ。一方でドゥルーズも当時ホットな哲学者だった。その二つを重ねたというのは非常にポップな感じがして、僕はおもしろかったんですよね。

佐原:ドゥルーズとローザスなので、そう言う意味では、小林先生はダンスの専門家であり、そして思想方面もIAMASで担当されていた。だから、僕は意外といるべきところにいたのかなという気もしますね。

小林:僕もちょうど佐原君が入ってきた頃は、実際にわりとドゥルーズをよく読んでいる時期ではあったんですよね。
佐原君の修了を機にドゥルーズからしばらく離れていたんですけど、今年になって、今の1年生から読書会をやってほしいと言われて。最初は『サイボーグ・フェミニズム』を読んだりしていたんだけど、次に本丸に行きたいわけですよ。その本丸というのがドゥルーズの『差異と反復』で。

佐原:本丸すぎませんか?

小林:それは誰もが言いますね。序論だけで1ヶ月もかかっていて遅々として捗らないんですけど、そういうことをしようと学生さんが言ってくれたことは、僕はすごくうれしかったですね。

佐原:IAMASのようなものづくりをしている場、メディアアートを代表するような場所に、哲学に触れる機会があるというのはいいですね。

小林:学生はそれぞれが違う研究や制作をしているので、『差異と反復』がそれぞれの研究や仕事にどうつながっていくのか、またはつながらないのか。そこはおもしろいですよね。

異物を受け入れる寛容さを持つIAMAS

小林:それで、佐原君は今どんなことをされているんですか。

佐原:今は大阪大学大学院人間科学研究科で、ドゥルーズの研究者である檜垣立哉先生のもとでドゥルーズとライプニッツを対象に研究をしています。

小林:檜垣研は日本のドゥルーズ学としては非常に有名で、優れた研究者も多く輩出していますよね。
IAMASにいた時は、言ってみればドゥルーズは日常語ではなかったというか、僕ら2人だけのときにこっそり語るしかない非開放的状況でしたけど、檜垣先生のところは、むしろそちらが日常語になっていくわけですよね。そのあたりの感覚の違いはありますか。

佐原:そこはもう全く違う感じですね。良し悪しではなく、単なる違いとして語られるべきだと思うんですけど、哲学専門のところは当然哲学をやりますよね。“何か”の専門のところは“何か”をやりますから。

小林:逆に言うと、その“何か”しかやらないとも言えます。

佐原:そんなふうにして、ある領域についての理解を明晰にしていくということですよね。大本の学問が壊れてしまっては意味がないですから。もちろん、そのうえで領域横断的な試みが盛んになされているということがあります。
一方で、IAMASで研究をしていたときには、ある意味で学問は壊れてもいいのかなというような雰囲気を感じていました。何と言うか、ある意味過保護にしてもらっていたのかなと…。

小林:甘やかされていたということですよね(笑)。

佐原:そうですね。受け入れてもらっていたという感覚はありますね。卒業してから客観的に振り返ると、小林先生は、既成の理論や言説に無自覚に従いにいくことによって失われてしまうものに留意されていたのかなと感じています。そのおかげで、自分の中で考えられるのをやめさせられなかったものというのがたくさんあったと思います。

小林:IAMASで哲学だけを専門的に扱ったのは佐原君が初めてだったので、生徒も教員も少し敬遠してしまうところがあったし、僕自身も暗中模索の部分があった。それが“甘やかす”という状況になったということだと思います。
一方で、それを受け入れた学校側も同級生たちもやはりどこか一目置くみたいなところがあった。甘やかすというか、寛容さがあったということはいいことだと思いますね。阻害するというのはすごくつまらないことなので。

現在社会で起こる現象の起源を問う上で、有効な哲学の可能性

小林:今博士論文のテーマとして取り組んでいる、ライプニッツ×ドゥルーズ論というのはどのようなものになるんですか。

佐原:IAMASでローザスの研究をしていた時に使っていたのが、『千のプラトー』以降の後期のドゥルーズの思想で、特に『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』がある種の参照先でした。『感覚の論理学』はドゥルーズが画家のフランシス・ベーコンの絵画をどう見たかという本なんですが、その中でダイアグラムと言われている潜在的なシステムが機能しているところを見てみたかったというか、そういうところからダンスがどんなふうに出てくるかということをやってみたわけです。ダンスを物理学的で表象的な運動によって説明するだけではなく、表象ではないもの、理念とか出来事とかからダンスを考えるみたいなことです。その意味では今も全く別の研究をしている感覚ではないですね。

小林:今テーマとしているドゥルーズの方から見たライプニッツ、あるいはライプニッツから見たドゥルーズというバーチャルな側面。つまりドゥルーズはどういう風にライプニッツを参照したのかと同時に、ライプニッツはどういう風にドゥルーズを先取ったかという思考実験ができるのは哲学のいいところですよね。手前味噌ですが、そういう思考実験はIAMASで培われた部分があるのかなと考えたりしますね。
佐原君は、今ライプニッツを読む意味はどんなところにあると思いますか。

佐原:例えば「これはあれより大きい」とか、まあ何でもいいんですが、僕らは認識をした上で言語活動を行っているとします。そうした認識が可能になる領域が成立するプロセスを、ライプニッツは非常に巧妙に、そして多様に叙述しているということです。認識以前のものと認識そのものにはある種の連続性があって、それだけではなくてねじれのようなものもあって、僕はそこにおもしろさを感じているし、ライプニッツの今日的価値もそこにあると考えています。

小林:哲学の範疇で、ある精神、知性、欲望というような何かがどんな風に立ち上がるかを精緻に見ようとする、つまりその起源を問うということは、現在でも重要なことだと思います。
例えば、あらゆるSNS上で毒の言葉が大量に再生産されて炎上するという現象が起こった時に、加害者の話だけではなく、そういったネガティブな言語化がどうして生まれてしまうのかを問うという際にも、ライプニッツは使えるというか。哲学を使える、使えないで分けてはいけないんだけども、何百年経った今でも有効射程が広がっているということですよね。

佐原:そうですよね。

小林:哲学は自在に距離を持っているというか、有効射程のすごさがありますよね。
ソクラテスもプラトンもアリストテレスも、カントやヘーゲルも、ある一定の有効な距離をもって常に世界と繋がっている。おそらくドゥルーズが研究していたようなヒュームやスピノザも、ライプニッツであっても、一定の距離をもって現在の社会や人間とやはりどこか繋がっている。だからその文脈で考えた時に紐付けの仕方がすごく重要になってくる。それがこれから佐原君たち、若い哲学者がやるべき仕事かなという感じはしますね。

佐原:ライプニッツには世界と主体を結びつける「紐帯」の理論があるんですが、「紐付け」ということに関しては、僕の場合そういうところから考えていくことになると思います。

取材: IAMAS 小林昌廣 研究室

編集:山田智子 / 写真:山田聡

PROFILE

GRADUATE

佐原浩一郎

哲学研究者

1976年生。大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程。専門はジル・ドゥルーズの哲学。主に芸術論およびライプニッツの哲学の側面から、ドゥルーズの哲学を捉えようとしている。論文に「現代建築における新ライプニッツ主義的実践――入江経一とサミュエル・ベケット」(『叢書セミオトポス13』日本記号学会編、2018年)など。目下の主題は、ドゥルーズ哲学におけるライプニッツの取り分、そして、非共可能性とわたしたちの認識とがいかにして共立しているか。

INTERVIEWER

小林昌廣

IAMAS教授

1959年東京生まれ。医学と哲学と芸術を三つの頂点とする三角形の中心に「身体」をすえて、独特の身体論を展開。医学史・医療人類学から見た身体、古典芸能(歌舞伎、文楽、能楽、落語)から見た身体、そして現代思想とくに表象文化論から見た身体などについて横断的に考察している。各地で歌舞伎や落語に関する市民講座や公開講座などを行なっている。京都での7年間の講座が最近『伝統芸能ことはじめ』(京都芸術センター)という一冊にまとめられた。