IAMAS Graduate Interviews

INTERVIEW 017

INTERVIEWER 前田真二郎 IAMAS 図書館長・教授
#2020#ANIMATION#DIRECTOR#MOVIE

GRADUATE

大橋弘典

映像作家・演出

「作って、見せて、反応が返ってくるのが楽しい。そのサイクルがずっと続いている。」

IAMAS在学中は24時間365日オープンの環境をフル活用して3年間映像制作に没頭し、コマドリ兄弟など高い編集技術とユーモアを駆使した映像作品を次々と制作。卒業後は子ども番組の制作を中心に、アニメーション制作や監督、作詞、振り付けなど多方面で活躍する大橋弘典さん。在学中から大橋さんの作品を数多く見てきた前田真二郎教授が、制作の“核”を探ります。

IAMASの延長線上に今がある

前田:大橋君は岐阜県の出身で、高校卒業後にIAMASに進学したわけですが、大学や専門学校など様々な選択肢の中からIAMASを選んだ理由を教えてください。

大橋:高校は普通科の進学校だったので、同級生のほとんどがセンター試験を受けて、国公立の大学に行くことを目標にしていたのですが、僕は大学に行って、就職するということがあまり想像できず進路を決めかねていました。
その頃、たまたま両親が岐阜にIAMASという学校ができるらしいという情報を得てきて、ちょうど高校3年生の夏休みに体験授業があったので、そこに参加することにしました。

前田:体験授業ではどんなことを学んだのですか。

大橋:僕はAdobeのPremiereを使って、あらかじめ用意してある映像と音を切り貼りして、1つのストーリー性のある映像を作るというワークショップに参加しました。
パソコンもほとんど触ったことがないような状態で参加したのですが、そこでコンピュータを使ったものづくりの楽しさを味わうことができました。
当時は携帯電話が普及し始める前で、これからはコンピュータの時代だというような漠然とした雰囲気があったので、僕も今のうちにコンピュータのことを勉強できたらくらいの気持ちで、IAMASに進むことを決めました。

前田:入学当初から映像を学ぼうと決めていたのですか。

大橋:いいえ。当時はコンピュータだったら何でもいいかなというくらいの気持ちでしたね。映像はレベルが高いというイメージもあったので、最初はPhotoshopで写真を加工したりするところから始めました。

前田:当時のIAMASは専修学校でしたが、ラボ科とスタジオ科という2つの学科があって、ラボ科は大卒以上、スタジオ科は高卒以上に受験資格があるという形でした。

大橋:実際にはスタジオ科でも大半は大卒で、高校卒業後すぐにIAMASに入学した人は全体の1割くらいでしたね。

前田:ラボ科とスタジオ科が合同で行う授業もありましたよね。戸惑いなどはありませんでしたか。

大橋:当時の環境は自分にとってはすごく良かったですね。普通に大学に行っていたら、同じような年齢や興味の人ばかりだったと思うんです。幅広い年齢や、音楽、デザイン、映像など色々な専門領域を持った人がいて、それが僕には面白かったです。
例えば、昭和音楽村(日本昭和音楽村主催現代美術イベント『そそりゆく音楽』)など、学生主体で企画したイベントが色々とあって、それこそのこぎりで木を切るような制作段階から見ることができて、とても刺激を受けました。様々な作品やイベントを見て、自分の判断基準が鍛えられたのは大きかったと思います。

「がっぽい」

前田:1年生の年次制作は既に映像作品だったと記憶しているんですが、最終的に映像の方向に進んだのはなぜですか。

大橋:1年生の年次制作はCGでしたね。入学当初はパソコンを全く知らなかったので、PhotoshopやIllustratorを触っていたのですが、パソコンに慣れてくると、徐々に興味が映像に移っていきました。IAMASではビデオカメラも借りられたので、実写を撮って、取り込んで、加工してというのが面白いなと。ちょうどミュージックビデオ(MV)でかっこいいものとかがどんどん出てきている時期だったので、かっこいいなあ、やってみたいなと、色々試して作っていました。

前田:90年代後半から2000年代初頭は確かにMVの影響力がありましたね。ミシェル・ゴンドリーとか。
そういえば、フィッシュマンズのボーカルの佐藤伸治さんが亡くなった時に、フィッシュマンズの曲に合わせて追悼映像も作っていましたよね。MVだけではないですけど、1年生の頃から貪欲に映像作品を作っているなあという印象が残っています。

大橋:フィッシュマンズのMVも全部好きだったので。あらためて言われると、恥ずかしいですね(笑)。
作品までいかないものもありましたけど、単純にパソコンを触るのが面白かったし、とにかく色々と覚えたかったので。同世代が大学で4年間かけて勉強している分を自分は2年間で学ばなければとも考えていたので、本当に朝から晩までパソコンに触っていたという感じですね。

前田:仮眠室は結構使っていた方ですか。

大橋:そうですね。1週間分の荷物を持ってきて、ずっと仮眠室で生活して、土日に家に帰るみたいな生活でした。IAMASは24時間パソコンが使える環境だったので、使わなきゃもったいないと思っていました。

前田:当時の制作マシンでの映像合成は、時間との闘いでしたよね。これ時間をかけて作ったんだろうなと感じる作品が多くありました。
大橋君は研究生で残ったので、トータルで3年間IAMASにいましたが、一番力を入れて取り組んだ作品は何ですか。

大橋:研究生の時に参加したIAMAS TVというプロジェクトはかなり積極的に関わりました。生徒だけで3~5分くらいの作品を自由に制作して、大垣ケーブルテレビで実際に放送する15分番組を作るというプロジェクトで、僕は1学年下の岡本彰生さんとコマドリ兄弟というユニットを組んで、4回か5回くらいのシリーズで制作しました。

「こまどり兄弟」

前田:2人が出演して、お互いに撮影しあって、ユーモアもありましたが、実験精神にあふれてましたよね。

大橋:ピクシレーションというか、実写をアニメ的に加工したり、切り貼りしたり。それをソフトウェア上でアニメーションを作っていましたね。

前田:IAMAS TVを含め、研究生時代は実践的に制作に集中している印象でした。

大橋:そうですね。1,2年生の時は色々なツールを覚えることに主眼を置いて制作をしてきて、3年生はそれをベースにやりたいことが実現できてきた時期です。その中でも、実際に放送される番組を作るという体験は大きかったですね。今やっている仕事も、そこからの延長線でしかない。核の部分はずっと変わらず続けている感じです。

卒業後は、子ども番組を中心に映像ディレクターとして活躍

前田:卒業後は映像を中心に多数の仕事をしていますが、就職活動はしていたのですか。

大橋:全くしませんでした。同級生の佐々木隼くんは2年間でIAMASを卒業して、その後1年間は岐阜に残って、ソフトピアの中で仕事をしながら、東京の制作会社などに自分のポートフォリオを送って売り込みをしていました。それで、佐々木君が東京の会社から1年間子ども番組を作ってみないかというオファーをもらって、一緒にやらないかと誘われました。

前田:2001年の3月に卒業して、その後すぐに東京へ行ったということですか。

大橋:そうですね。2001年4月から放送がスタートする番組だったので、2,3月は東京と大垣を行ったり来たりしながら、東京の佐々木君の部屋で一緒に編集作業をして。卒業後僕も東京に移りました。

前田:それはどのような番組だったのですか。

大橋:Eテレの「えいごであそぼ」内のアニメーションを1年間で10本くらい制作しました。コマ撮りアニメーションだったんですけど、最初は佐々木君の部屋に小さなセットを組んで撮影して、それぞれがパソコンで編集作業をしてという感じで作っていました。

■ 「プチプチアニメ

前田:2年目以降はどうしたのですか。

大橋:その番組がもう1年続くことになったのと、ある会社が社内に制作チームを作るという話があって。制作環境を用意してもらって、時々その会社の仕事をしながら、自分たちの仕事もしていいよという本当にありがたいお話をいただいて、しばらくはその会社を拠点にしていました。
そこはCD・DVDをプレスしている会社だったので、例えばミュージシャンのアー写を撮っているカメラマンとか色々なアーティストが出入りして、どんどん人脈が広がって。MVを作る時に声を掛けてもらったり、仕事にもつながっていきました。

前田:今メインとしている仕事は子ども番組ですか。

大橋:メインは子ども番組ですが、他にもスマホゲームのキャラクターやゲームの認知を高めるようなYouTube番組を月に2本制作しています。ゲームのキャラクターを使って、アニメ漫談をさせたりとか、企画からアニメーションの制作まで携わっています。
TVは色々な人に見てもらえる楽しさがあるんですけど、YouTubeはTVに比べて制約が厳しくないので、少し尖った企画が通りやすい。単純に面白いものに挑戦しやすいですね。

「にゃんこTV」

前田:子ども番組やアニメーションには、キャラクターをグッズに展開するなどの可能性もあると思うのですが、そういう興味はありますか。

大橋:やってみたいという気持ちもあるのですが、どうしても作ることが面白くて、今はそこで完結してしまっているところがあります。

前田:今でも作ることが楽しいと。

大橋:楽しいですね。作って、友だちに見せて、反応が返ってくるのが面白い。IAMASの頃から今まで、ずっとそのサイクルが続いているだけという感じがします。

前田:なるほど。様々な仕事をしていますが、仕事をする上で大事にしていることやこだわっていることはありますか。

大橋:僕は制作の楽しさをお客さまにも一緒に味わって欲しいし、閃きを共有したい。“一緒に作っている”という感覚を味わってもらった方が面白いし、互いに納得がいくものができると考えています。
特にコマドリやアニメーションは巻き戻っての制作のし直しは現実的ではないので、最初の打ち合わせはかなり大事にしています。

自ら提案し、新たな仕事を開拓する

前田:最近ではアニメーション制作だけにとどまらず、歌詞を書いたり、振り付けをしたりもしています。映像制作者が歌詞や振り付けまでするのは珍しいと思うのですが、どのような経緯でそういうチャンスに恵まれたのですか。

大橋:「みんなのうた」の「ひげヒゲげひポンポン」という曲に関しては、デモテープとイメージボードを持ち込んで。それが採用されて、実際に制作することができました。
ある日女の子に髭が生えて、「サンタさんみたいな髭の人はどんな人なのかな」とか、「ダリみたいな髭が生えている人はどんな人なのかな」とか。ひげ=その人のアイデンティティというか、「自分だったら、どんなひげが欲しいかな」という女の子の妄想の話を歌とアニメで表現しました。サビの部分は、へんてこな呪文のような、耳に残るようなものにしたいなと考えて、歌詞も自分で作りました。

■ 「ひげヒゲげひポンポン

前田:「ひげヒゲげひポンポン」の反響はどうでした?

大橋:何度かリピート放送もされたので、評価してもらえたのかなと思います。子どもたちが歌ってくれたりもしましたし、絵本も発売されました。

前田:大橋君のように、依頼された仕事に答えるだけでなく、自分から企画を提案したり、やりたい仕事を開拓していく。今はそういったアプローチができる人が活躍できる時代ともいえるかもしれませんね。

大橋:自分の立ち位置を理解して、強みを活用していくことが大事なのかなと思っています。大手の制作会社やベテランの映像作家がいる中で、僕はある程度自分の立ち位置を割り切って考えています。先ほども話した通り、今は映像表現ができる場所がTVだけではなく、YouTubeをはじめとしたネット上にも数多くありますし、ネット上の尖った面白さがTVの方に逆流してきている現象も出てきているので、今後はより幅広いクリエーターが様々な場所で活躍できるのではないかなと感じています。
僕が最初にTV番組の制作に関わったのは22,23歳のときでしたが、おそらく依頼主は完璧なものを作ることより、若いパワーやエネルギーを求めていたのかなと思いますし、今の自分自身は求められるものも変わってきていると思います。
様々な価値観が認められつつある中で、色々な自分を演出しつつ、自分が一番輝ける立ち位置を探すことができれば、クリエーターとして強く生きていけるのではないでしょうか。

取材: IAMAS

編集:山田智子 / 写真:山田聡

PROFILE

GRADUATE

大橋弘典

映像作家・演出

1979年岐阜生まれ。1998年IAMASスタジオ科に入学。
2001年より東京でフリーで映像制作を開始。
Eテレ「バビブベボディ」「ZOZOZOKI」監督
みいつけた・トゲトゲシンデレラ 監督
プチプチアニメ・ユニコーンのキュピ 監督
資生堂「ザ・コラーゲン」WEBムービー 監督
ANIMAX「うたのじかん」「僕の小さな悩み事」監督
NHK みんなのうた 「ひげヒゲげひポンポン」監督
NHK みんなのうた 「ビーフストロガノフ」監督
NHK みんなのうた「毛布の日」監督
NHKWORLD / WHAT’S YOUR CONNECTION?オープニングディレクション
NHKWORLD / Fresh Eyes on Japan オープニングディレクション

INTERVIEWER

前田真二郎

IAMAS 図書館長・教授

1969年大阪生まれ. 映画, メディアアート,ドキュメンタリーなどの分野を横断して, イメージフォーラムフェスティバル, 恵比寿映像祭, 山形国際ドキュメンタリー映画祭などで発表. 舞台や美術など他領域アーティストとのコラボレーション, 展覧会の企画も積極的にすすめている. 2005年よりDVDレーベル SOL CHORD を監修. WEBムービー・プロジェクト”BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW”が, 第16回文化庁メディア芸術祭・アート部門にて優秀賞を受賞(2012). モノローグ・オペラ『新しい時代』(三輪眞弘+前田真二郎)が,第17回佐治敬三賞を受賞(2018).

https://researchmap.jp/read0126615/