前田真二郎

小林昌廣

(左)安藤泰彦

前林明次

-世界の中心大垣で未来の文化を考える-

シリーズ:a.Laboからの応答 #1D


小林昌廣

「映像表現における自由と過去」- レクチャーとディスカッション



レクチャー



小林昌廣によるレクチャーは、前回上映された前田真二郎監修のオムニバス・ムービー『BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW』(以下『BYT』と略記)と、そのプレゼンテーションに対する応答として行われた。


はじめにドキュメンタリーの映像的定義とその効用について述べる。佐藤真によると、ドキュメンタリーとは、その時代においての「正しい言説」に奉仕するメッセージ性、つまり普遍的な正しさではなく、その映像が撮られた時代に限定された正しさが、その構造に含まれるものである。そしてその効用は、川村健一郎によると「カメラ(マンの眼)と対象を隔てるもの(=対象を覆っているもの)」をそこから排除することによって、撮影者の存在が希薄になり、撮られる対象が「裸形のもの」、すなわち無媒介のものとして立ち現れてくる可能性がそこに生じることであると言える。


ここで『BYT』の「指示書」の中の、三つの主要な項目を確認する。

1日目 明日撮影する場所とそこに行く理由について話す(録音)

2日目 現地で撮影する

3日目 昨日の出来事について話す(録音)


制作者にとって、作業は通常のタイムラインに沿って行われる。しかし鑑賞者の側からすると、『BYT』は必ずしも語られている物語を見るように作られているとは言い難い。物語を成立させるような構造を説話論的と呼ぶが、『BYT』は反説話論的な構造を持つ。明日を語るナレーション(N1)と昨日を語るナレーション(N2)の間には確かな順序が存在している。しかしそれらはいずれも二つのナレーションの間に撮影された映像と同時に流されるのである。声と映像の間には混濁/ズレが生じ、鑑賞者は今目にしている映像の説話論的土台を見失う。


このとき既に鑑賞者と映像との関係性の問題が生じていることに、わたしたちは気がつくだろう。

映像の中で語られる、

N1 :「明日(未来)」は鑑賞時(今)にとっての未来ではなく、

N2 :「昨日(過去)」は鑑賞時(今)にとっての過去である。

しかしN1とN2の間に撮影された映像は、

N1にとっての未来であり、

N2にとっての過去である。

ナレーションと映像の関係性および指向性が、鑑賞者のそれとは一致せず、ここにズレが生じる。「先取りされる未来」(後に話題はこの箇所における奇妙さへと移る)と「反芻される過去」。映像の中でこの二つがナレーション(テキスト)という形で同時に発生しているのである。

ここで、前田作品を読解するひとつの参照点としてジャン=リュック・ゴダール監督作品『カメラ・アイ』(1967)(クリス・マルケル製作『ベトナムから遠く離れて』第六章)が上映される。前田は前回、この作品について「自分の中にベトナムを作り、たびたびその問題を自作のなかで取り上げる」というゴダールの態度に対して共感を表明している。 この時代のフランスでは、ベトナム戦争を撮影することはおそらく「正しい言説」であり、極めて説話論的な行為だった。しかしこの『カメラ・アイ』という作品は物語を映像化するというタイプの作品とは全く異なっており、そうすることによってゴダールは一体何を問おうとしていたのか。小林は以下四つの論点を提出する。


内面化の問題…ゴダールにとって、ベトナムは物理的にも心理的にも圧倒的な外部だった。ハノイへ赴きそのような外部へと到るのではなく、自分の中にある仕方でベトナムを内面化するという選択。

カメラの向こう側…ゴダールは何を撮っていたのか。

ナレーションの意味…ゴダールの思想、(新)左翼性はナレーションにおいて顕著に見出すことができる。そのような意味で、ドキュメンタリーにとってのナレーションの重要性が示唆される。

オムニバス作品における本編全体に対する個々の作品の位置付け…前回の『BYT』の上映は「8本揃って全体」、あるいは「1本で全体」という態度も可能である。


中でもベトナムを内面化するという問題が重要である。一方で、現地に赴くことができない場合には、現地を自分の中に飼う、すなわち「取り込み」を行うことにより、自らの日常性においてそれを表現の対象とすることが可能となる。他方では、現地に赴き、現場における日常性を、自らの非日常性として捉えることとなるだろう。そこからゴダールの考えているベトナム、あるいはそれに対する前田の共感が見えてくるのではないだろうか。


小林は最後に「作家の死」について触れ、このレクチャーを締めくくる。ロラン・バルトによると、作品は作者と切り離して読まれるべきものであり、作家のメンタリティ、生い立ち、環境、病気などが作品と結びつけられるべきではない。芥川龍之介の『歯車』に対する誤読の例を挙げながら「作者の死」が語られ、レクチャーは終了する。



ディスカッション



作家の名


まずはじめに「オムニバス」という言葉が「乗合馬車」という言葉から派生したものであるということが伝えられる。前田真二郎は『BYT』を複数の作者によるシリーズとして扱うことを可能とすべく、 テレビに代表されるような作者不在の映像を踏まえた上で、各々の作者の個性が浮かび上がるようなルールを設定した。しかしオムニバス・ムービーとしてそれらを見たときに作者の個性が希薄となっており、(前回のプレゼンテーションにおける)個別の作者紹介は不要だったのではないかと小林昌廣は述べる。指示書とは作家に課される不自由であり、作家は制約を課されることによって、ある自由を獲得する。そこに作家のメンタリティや固有名がもたらされたとき、作家が獲得した自由の速度を減衰させることになるのではないだろうか。


安藤泰彦は、指示書による『BYT』の構造によって作者の意図がはぐらかされるような場面が生み出されていると述べる。そのために、全面に現れているそれぞれの作り手は匿名の存在にとどまっている。それは非常に微妙なニュアンスとして現れている。そこにいるのは表現に向かうときの戸惑いを帯びた個人であり、それを作家と言ってしまうと語弊があるのではないかと安藤は話す。


前林明次が触れるのは作者の入れ子構造についてである。映像を作った人物も、ルールを作った人物も共に作家であり、そこに衝突や、ある意外な出来事が生じるということがあり得るだろう。


日常性のパラダイムシフト


前林は、前田による『BYT』第1作目[BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW #01 SAWANO-IKE (2008)]の印象を語る。それは、撮影当日に車が事故を起こし、それについての翌日のナレーションがどこか生き生きとして聴こえたというものである。そのことが重要な要素としてこの作品の始まりにあったのではないだろうか。つまり、日常性の中に走る生々しい亀裂。本来、そのような生々しさは日常と離れたところにあり、個人、そして日々は恒常的に平坦である。しかし、その対極には起こるはずのない何かが起こる可能性が厳然として存在し、日常とはそのような可能性と関係することによってのみあり得るものであると言うことができる。


3.11以降、日常の捉え方そのものが変わったのだ。決してあらゆる日常を縛っていた前提が崩壊し、平板な日常が終わったというわけではない。そうではなく、各作家はフラジャイルな日常性をどのように捉えているのかということが今こそ問われていると感じている。前林はそのように話す。それを受けて安藤が前田に対して尋ねるのは、3.11以降、『BYT』におけるルール、とくに昨日、今日、明日という3セットに対する捉え方がいかに変質したのかということである。前田は当初、到来する偶然に対して、それを撮影する際にどのような反応を引き出すことができるかを逆算し、ルール化できないかという発想が中心にあったと言う。しかし昨年は、偶然を呼び込むためにタイミングを計るのではなく、今自分が何を撮りたいかという、そのときの意志に基づいて撮影されることが主だったと話す。


さらに安藤は、行為の問題、現地に行くか行かないかという表現者としての選択が存在すると述べる。


意図と映像の不一致


三輪眞弘より、声の問題、「意味内容としての声」と「声それ自体」という、声の二つのレベルについての話題が提出される。


安藤は前日の声の異常さについて話す。翌日の声は、時制的に映像よりは鑑賞者の側に近いので馴染みやすいが、映像を見ているのに、その映像をこれから撮影しようとしている声が聴こえてくるのは非常に奇妙で、鑑賞者は両者の位置関係を見失う。興味深いのは、声が意図を放つということではなくて、意図と映像との間のズレである。


小林は鑑賞者の視点から次のように語る。その声が明日についてのナレーションであることを知るのは撮影者であって、単に映像と音声の関係が鑑賞者へと向けられるとき、そこで語られている「明日」をわたしたちは「過去」として見なければならない。そのとき、およそ時制の誤った話し言葉を聴いているかのような違和感が生じるだろう。それゆえ、明日についてのこの特権的なナレーションがなければ、この作品は成立しない。そしてそれがあることで映像の中に混濁が発生し、テキストによって映像を反芻するという特殊な鑑賞法がそこに要請されるのである。


語りかける対象


参加者の一人から、1日目の音声の録音の際、それは一体誰に向けられているのかという質問が飛ぶ。前田は、誰に向かって話しているのかよくわからない状態で話していると答える。参加作家の一人である池田泰教は、話す対象と作品を提出する対象はほぼ等しいのだと述べる。具体的には、自分が知っている範囲の、物理的に距離が近い人々を対象にしている。しかしそれと同時に、このような出来事を創造したこともないような人々にも向けられている。そして当然どの作者も、上映作品として見られることについての意識を棄却することはない。


別の参加者から質問が寄せられる。見られることを意識して前日のナレーションを録音するとき、頭の中で映像を想像するのか。この問いについて前田は、本作が高い比重で作者の行為、パフォーマンスの含まれるものであるとの見解を語る。演出という観点から小林は次のように話す。初日の声を録音した段階では、それはまだドキュメンタリーではない(演出的)。しかし3日目の録音時に映像とは異なる(映像には映されていない)2日目の出来事を話すのは自由であり、そのようにして演出からの脱落が可能となる。演出的な初日の録音についてさらに言及すると、おそらく映像作家は皆自らの映像のフォルムのようなものを想像するのであろうが、未だ撮影されていないものに対して何らかの声をテキストとして残していくというある種の不可能性がそこに存在している。


前田は3日目の録音について、それがなければ別のミニマルな作品として成立するように思えるが、映像を反芻する3日目の録音を盛り込むことで、何とも言えない奥行きが出るのではないかと考え、ルールの中にそれを設けたと説明する。


逸脱への期待


さらに別の参加者が感想を述べる。『BYT』シリーズを複数本見ると、似通ったニュアンスを持つ作品の存在に気がつく。そうなるのは指示書に起因するのか、あるいは参加作家の共通点としての現れなのか。しかし見る側の期待として、まったく例外的な、こちらが驚かされるようなものを見てみたい。


それを受けて小林は次のように話す。映像よりもテキストのほうが影響を受けやすく、ナレーションの上で似通ってくるのは、それが参照されているからである。映像は影響を受けにくいが、鑑賞者側の問題として、8本を通して見ると、それらは類型化されて見え、鑑賞者も類型化されたまなざしで映像を処理しようとする。さらに本数が増えたとしても、そうした一貫性が保存されるような鑑賞が成立するだろう。


安藤は、3日目のコメントが1日目と2日目のズレを解消してしまうものになってしまっている作品が散見されると話す。続いて三輪は、それぞれの作家の個性がきれいにまとめられていることを求めている作品であるようには思わないと話す。


映像の統一性


映し出されるのは撮影者の個人的な映像であるが、映像として提出されたとき、それは表現として公的なものとなる。そこがどのように接続されるのかという問題が小林によって投げかけられる。


三輪は『BYT』における映像表現のメタレベルを示唆する。つまり、高解像度の映像は細部に到るまでを克明に映し出すが、その映像自体は鑑賞者に対してそのままに見ることを要請しているようには感じられない。おそらく、鑑賞者にとっては過去であるが、録音された時点では未来について話しているという仕掛けが決定的であり、そこから個性が抽出されるということよりもむしろ、映像の統一性が立ち現れてくる。説話的なものを見ることに慣れ親しんでいるわたしたちが、それを純粋に映像として見ることしかできないというこの仕掛けが、統一的な映像をそこにもたらすのではないだろうか。


具体的な制限がもたらす統一性はルールによって確保されているが、ルールは制限に触れない要素へと介入することはできない。それにもかかわらず、作者が異なっていながらにして統一性が浮かび上がってくる。その根拠のひとつとして、3.11以後の世界の見方が想像され得る。


記録と創造の問題


前田は言う。『BYT』はもともと「2011年を記録する」ということを趣旨として企画したわけではなく、杳として判明でない時制とセッションするための表現として始められたものである。カメラはその記録性を第一とすることを旨としており、それに則ってジャーナリスティックになにがしかを伝達するというのではなく、自分は芸術表現と色濃く結びついた場においてカメラを扱うという立場に自らを置いている。


『BYT』の記録性について、安藤は「そこに立ち会った人の心的状態」のドキュメンタリーかつライフログ的なそれであると語り、前林は、映像によって表現する人を媒介とした事件性および日常性の扱いであると述べる。


前田は記録ではなく創造的なものを指向していたのだと語る。そして、指示書によって創造的なものを表現することが果たして可能なのかという問いを自らに課しながらの作品制作であったと述べる。しかしそれらは結果的に記録へと回収されていく。前田にとって映像における創造性のひとつは話法の問題へと収斂される。それについてはゴダールの時代と同様であるのだ。


参加者の一人からは、記録として、アーカイヴとして洗練されているという感想が語られる。通常記録映像は作者の恣意性が内包されており、それによって不透明になる部分、疑わしい部分が、ルールによって撮影者自身がひとつの被写体と化すことで解消されており、記録として非常に見やすいものとなっている。前田は本作について、そうした記録性に回収されてしまったと繰り返し述べ、そのような認識は、沢山の映像が集まり記録性が顕著となってゆく中で、自分のやりたかったことはこうしたことであったのかという自問から生じたものであるということが明らかにされる。


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匿名性が映像の統一性と関係し、それが3.11以降の日常性と重なる。映像とは世界と独立しているわけではなく、常に世界の内部である。表現行為として世界から隔てられているかのような位置を占める指示書においても、実のところ事態は何一つ変わっていない。指示書による行動の制限は、生活における諸々の決定の内部の決定であり、日常的な決定とは決して切り離して考えることのできない決定である。指示書の外には、「指示書に従う」という自らへの指示が避け難く存在しているのだ。至る所に指示書が掲げられ、わたしたちはそれに従わなければならない。赴くべき場所、コンタクトを取るべき人物、読むべき文章、触れるべき部位…。そして映像はあらゆる指示を取り逃がすことなくその結果を記録していくこととなるだろう。


次のように考えることができるのではないだろうか。「3.11以降の(日本の)状況は、表現に立ち会う者をその表現から引き離す」。その意味において、映像表現はますます記録映像へと接近してゆくのである。前田が吐露する、「記録性に回収されてしまった」という『BYT』の表現についての認識は、期せずして表現というものに対するわたしたちの距離感が、もはやかつてと同様のものではなくなっているという、わたしたちが置かれている現在についての認識であると言えるだろう。それはつまり「不可抗力」である。芸術行為にとって抗うことのできない力が現在を満たしているのだ。そして、そのような力を探知することによってのみ、新たな芸術が可能となるだろう。わたしたちは「何の変哲もない日常」においてようやく世界の変化を知るのである。


(佐原浩一郎/IAMAS 研究生)