三輪眞弘

-世界の中心大垣で未来の文化を考える-

シリーズ:ART at IAMAS #1


三輪眞弘(音楽)

サントリーホール・ミュージサーカス参加報告



今回より新たに、IAMAS、a.Laboによるシリーズ "ART at IAMAS / 創造力の現在進行形" がスタートする。


2012年8月26日、サントリー音楽財団主催「サマーフェスティバル2012〈MUSIC TODAY 21〉」の中のひとつの企画として、作曲家ジョン・ケージの作品〈ミュージサーカス〉が施行、上演された。ミュージサーカスは、形態も規模も時間の長さも異なる様々な作品の上演が、同じ会場で独立しつつ同時に進行するという枠組みであるが、IAMAS「新しい時空間における表現研究プロジェクト」は、その活動の一環としてそこへ3つの作品を出品した。a.Laboのこの新たなシリーズの初回では、その際の活動報告を、当該プロジェクトの研究代表者を務める三輪眞弘が担当した。以下は、三輪によってそこで語られた内容についてのごく簡潔な記述である。


サントリーホールにおける〈ミュージサーカス〉上演の意義


会場となるサントリーホールは、東京初のコンサート専用ホールとして1986年に開館した。設計にあたっては、ベルリン・フィルハーモニーなどのドイツの同形式のコンサートホールが参考にされ、またベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の当時の芸術監督であったヘルベルト・フォン・カラヤンに助言を仰いでいる。客席は、段々畑のように幾つものブロックに分割され、それらの斜めの層が舞台を取り囲むように立体的に配置されている。ホール前の広場はカラヤンに因み、「アーク・カラヤン広場」と名付けられている。


「サマーフェスティバル」は、サントリーホールの開館以来、毎年行われているイベントであり、これまで様々なプログラムが企画されてきた。それらの多くは20世紀の音楽にまつわるものであり、そこではシェーンベルク、ストラヴィンスキー、武満、ケージ、メシアンなどの歴史に名を残す作曲家や、シュニトケ、ベリオ、クセナキスなどの、その時点で存命である現代を代表する作曲家の特集が組まれ、それ以外にも現役の多くの作曲家が紹介されてきた。1991年からは、オーケストラのための作曲コンクールである「芥川作曲賞」が開始された。


本年度のサマーフェスティバルでは、25周年記念としてクセナキスのオペラ『オレステイア』が上演され、さらに前述の〈ミュージサーカス〉が行われた。ミュージサーカスは、様々な上演が同じ会場で同時に進行するということのみによって作品となっているわけではなく、上演の開始時間と終了時間が「易占」によって、すなわち或る偶然によって決定されるという規則を有するがゆえに、それは作品であるとされている。個々の上演は、それぞれが行うべきことを行い、他の上演に合わせるということはしないし、他を排除するということもしない。自分は自分のままに、他人を受け入れる。規則がひとつあるにせよ、どのような上演が重なるかも分からないような状況で、それでもケージがそうしたものを自らの作品であると言えるのは、音楽に対する彼の以下の態度によって説明されるだろう。

「耳を開かせる」とケージは言っている。世界には様々な音が飛び交っている。完全に無音の世界が死を意味するのであるならば、どのような音であろうとそれは生の世界を表現するひとつの音であり、それが聞こえるということはそれ自体で純粋な美しさの現れとなる。ケージの主張を無造作に簡略するとそのように言えるのではないだろうか。西洋音楽はと言えば、五線譜を用いた記譜法に基づいて、それを駆使する作曲家、あるいはそれを理解し、訓練によって淀みなくそのとおりに定められた楽器を弾きこなす演奏家がいる。ケージは定められた記譜法や楽器といった西洋音楽の前提に疑念を差し挟み、その疑念をまた作曲においても表している。その点において、音楽史はケージを極めてユニークな存在であると見做すだろう。ケージにとっての作曲とは、既成の前提に則った行為ではなく、音の構成、すなわち音響の組織化を意味している。


そうした意図が顕著に現れたものとして、あるいはジョン・ケージの名前をポピュラーにしたものとしても挙げられなければならないのがプリペアド・ピアノである。プリペアド・ピアノは、グランドピアノの弦に金属やゴムを取り付けることにより、ピアノ本来のピッチが出ないだけでなく、そこから異常な倍音やノイズが発生するというものであり、それは同時に、「良いピアノ」と「悪いピアノ」というような、伝統的な西洋音楽には当然のように存在していた楽器の音におけるモラルを無力化する。「美しい音」を成立させているようなそうしたモラルは、ケージにとって「耳を閉ざす」ものとして認められるだろう。「耳を開かせる」とはつまり、「美しい音」から「音は美しい」への転換であると言えるのではないだろうか。ある意味で、それはどのような音であっても良いのである。


ホワイエおよびカラヤン広場においてミュージサーカスが行われる一方で、大ホールでは新進の作曲家による伝統的な西洋楽器のための作曲コンクールである「芥川作曲賞」が行われている。日本における西洋音楽の象徴的な場において、こうした対比が見られるということ自体、非常に新鮮でありかつ異様な事態として捉えられてよいだろう。一方には、外界からの音が遮断され、定められた楽器の音のみが鳴り響く、多分に音楽大学的な、正統な西洋音楽の空間が置かれ、他方には、様々な音が雑多に混ざり合い、茶道やダンスなど多様なパフォーマンスが繰り広げられる開かれた空間が置かれる。音楽とは何か、今生きているわたしたちにとっての芸術とは何か。二つの極が作り出す振幅の中でわたしたちに投げ掛けられているのはそのような問いである。



出品された4作品について


ミュージサーカスで上演される約50の作品のうち、三輪が関わっているものが4作品あり、そのうちの3つがIAMAS「新しい時空間における表現研究プロジェクト」の一環として出品された作品である。個々の作品の簡潔な内容を以下に記す。



『芥川賞候補作品リミックス』ヲノサトル


プロジェクト外の作品。三輪が提案し、ヲノサトルによって演奏された。今しがた大ホールで演奏された候補作品の録音が、間髪入れず終了直後にリミックスされる。当然そこには著作権の問題が存在している。現代音楽においては著作権の実効性と作者の意図とのあいだに乖離が見られるということが決して少なくはなく、そうしたことから現代の音楽作品は自ずと著作権の問題を内包していると言えるだろう。本作品では、表現においてそうした問題を外在化し告発すると同時に、著作権によって抑圧されている或る可能性の一端を開示する。



『夢のワルツ』フォルマント兄弟


三輪と佐近田展康(名古屋学芸大学教授)から成るユニット「フォルマント兄弟」が「流し」となる。そこで使用されるMIDIアコーディオンは、先頃発表された「兄弟式日本語ボタン音素変換標準規格」に対応し、人工音声による日本語での発話・歌唱が可能となっている。アコーディオンのボタン部には日本語に必要な音素が割り当てられ、鍵盤部には抑揚の表現を可能にした和音平均化アルゴリズム(例えばドとド#の鍵盤をを同時に押すと、それらふたつの音高の丁度中間の音高のひとつの音が出る)が組み込まれている。和音平均化アルゴリズムによって、複雑な歌唱情報を詳細に記譜し、それを歌唱することが可能となっている。例えば「節回し」やビブラート。必然的に、人工音声が歌唱することになるのは演歌である。ピアニストの岡野勇仁がMIDIアコーディオンの演奏を担当し、三輪が人工音声を出力するトランジスタ・メガホンを脇に抱え、佐近田がギターを伴奏する。



『首都圏清掃除染促進運動』IAMAS


サントリーホールのホワイエに運ばれた4台のロボット掃除機「ルンバ」(iRobot)を大垣から遠隔操作し、「除染」するというパフォーマンス作品。ルンバの上部にはiPadが置かれ、Facetimeというビデオチャット機能を用いて、大垣とのあいだで双方向通信を行う。大垣のディスプレイにはホワイエの様子が映し出され、ルンバ上のiPadには防護服を着用した大垣のオペレーターが映し出される。彼らによって操縦されたルンバは、ホワイエに撒き散らされたごみ(放射性物質の名称が記されている)を吸い込んでいくのだが、ダスト容器が取り外されているため、吸い込まれたごみはすぐさま吐き出されていく。作品の下敷きとなっているのは、ハイレッドセンターによる『首都圏清掃整理促進運動』(1964)。


技術的には、(1) ルンバが制御できるのか、(2) 何を使ってプログラムするか、(3) いかにして遠隔地からの制御を届けるか、という三つの問題に直面した。(3) については、あいだにVSPサーバを挟むなど、いくつかのプロセスを経た複雑な環境が構築され、操作伝達の時間の遅れの、可能な限りの減少が試みられている。



『流星礼拝』(2002、再演)三輪眞弘


本作の前身となるモノローグ・オペラ『新しい時代』(2000)の物語は、ネットワーク上に流れる旋律を神からのメッセージであると信じる架空の新興宗教団体「新しい時代」において、信者の一人がその旋律と同化するために、死んでゆくための儀式を執り行うというものである。関連作品となる本作では、「新しい時代」による、ほんの刹那に神と結びつくための「テクネー」が展開される。


演奏にはコンピューター制御による低周波治療器を用いた電気刺激装置、および鈴を使用する。腕に電気刺激を与えることによって腕が動き、手に持っている鈴が鳴る。装置は8チャンネルで、それぞれは4人の被験者の両腕に割り当てられる。コンピューターはサイン波を解析し、或るパターンを認識すると被験者らへ電気刺激を送り、被験者らはそれによって自らの意志とは無関係に身体を動かす。これは言わば、コンピューターによる人間の演奏であり、身体に訓練を課した上で行われる演奏とは真逆の事態である。



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20世紀の作曲家とは異なるアプローチを取りながら、三輪は伝統的な音楽、さらには20世紀的な音楽における無意識的前提に対して、或る意味では異議を申し立てていると言えるのではないだろうか。テクノロジーと人間との複雑な関係性へと身を投じることによって、ケージとは別の偶然を、つまり人為的な事柄へと浸透し、すでに純粋な状態として取り出すことのできないような偶然を、音楽という形式において理念的に抽出しているかのようだ。


伝統と革新のあいだ、閉と開のあいだ、20世紀と21世紀のあいだ、音楽は現在、そうした複数の「あいだ」で揺れ動く過渡期に身を置いている。まさに生成変化の舞台となった2012年8月のサントリーホールにおいて、ケージの仕事の再演への参加にあたって三輪が個人的に打ち出したテーマは「20世紀との訣別」だった。三輪にとってそのことは、20世紀が直ちにその解体を開始されなければならないということを意味するのではなく、ここで解体が完了し、そこにはすでに新たな秩序が創造されつつあるということを意味している。21世紀は虚構であることをやめ、新たに事実となるのである。


(佐原浩一郎/IAMAS 研究生)