小林昌廣

-世界の中心大垣で未来の文化を考える-

シリーズ:a.Laboからの応答 #3D


小林昌廣

KOSUGI+ANDOへの応答~埋葬される赤子、あるいは赤子の夢



レクチャー



三つのキーワードの紹介とともに、小林昌廣による安藤泰彦への応答が開始される。キーワードはそれぞれ、「インスタレーション」、「椅子あるいは母親」、「社会性/日常性」とされる。「社会性/日常性」については、日常性のほうが社会性と比して重要であり、どのように日常性を社会性へと持ち上げ、他者に日常性を理解してもらうかという問題がKOSUGI+ANDOの作品には伴っているということが予め述べられ、日常性と社会性は、対立するものでもお互いを補足するものでもなく、別々の文脈で語られるにもかかわらず、それぞれがどこかで結びついてしまう属性であるということが言い添えられる。



1. インスタレーション


それは空間全体を作品とするものであり、その空間が置かれている場所も含めて作品とされる。そのとき、鑑賞者と作品とは、それぞれ分けて語ることができるのだろうか。鑑賞者と作家との間に境界は存在するのだろうか。鑑賞者はその作品空間の中へと入っていく。「鑑賞する」とは、単に「見る」とか「聞く」といった五感のみに依拠するのではなく、鑑賞する身体が「通り抜ける」「迷う」「対峙する」といった身体全体による体験としてとらえることができる。そのように「鑑賞する」者がいなければ作品が成立しないというとき、すなわち「作品への鑑賞者の介入」が、作品のひとつの要素として考えられているという場合、鑑賞者と作品とが物理的にも観念的にも分離されているかどうかということについての説明は、非常に難しいものとなる。


そのとき、こちらもまた空間全体を作品とする「舞台芸術」との類似が指摘されたとしても不思議ではない。しかし体験という鑑賞態度を考えたとき、舞台芸術においては舞台と客席とが物理的に分かれているのに対して、KOSUGI+ANDO作品(インスタレーション)においては役者(空間内に置かれる諸々の構造物や、そこに展開される様々な現象)だけでなく、観客=鑑賞者も同様に舞台へと上げられてしまう。鑑賞者は作品へと介入することによって、すでに作品のひとつの要素となっており、「舞台上=インスタレーションの中」にいる限りではもはや誰が役者で誰が観客かを知ることはできない。舞台作品における例外として、天井桟敷(劇作家寺山修司が主宰した劇団)において、観客を舞台に上げることが試みられていたというケースが紹介される。


それでもやはり舞台芸術やパフォーマンスにおいて、観客が舞台へと介入していくのは現実的には難しい。それらは継起的な一連の物語という閉じられた世界として提示され、観客はその物語を客席から擬似的に体験する。対してKOSUGI+ANDO作品では、時間的に制約された物語性はそれほど明確ではない。そこで物語は何度もループすることで時間的な制約を逃れていったり、物語としては語り尽くされている「原発」というテーマが据えられていたりする。つまり物語はある意味で超えられているのである。


二人の作品に立ち会うということは、一連のリニアな、限りのある物語を読み解くという行為に立ち会っているのではなく、物語(story)を超えた物語(hi-story)、つまりある歴史(history)ができるところに立ち会っているということができるだろう。


フロイトの「夢判断」は、夢を分析することで、その夢を見た人の精神的な内面性や構造を読み取るためのひとつのアプローチである。わたしたちの内部には無意識というものがあり、それが何らかの形で夢の潜在的な内容を形作るのだが、それは見ることも知ることもできないようなある種のコンテンツであり、わたしたちの意志とは全く不随意に、ばらばらに構成されるものである。夢の潜在的な内容とは「欲望する」というそのことであり、「実在するものについてのイメージ」ではなく、ある種の「働き」、あるいは「力」である。そのような働きとしての潜在内容は、「夢の材料」と言われる諸々の実在するものについてのイメージの断片を随伴させながら様々な検閲を受け、それらは変形、編集されたものとして、顕在夢というかたちでわたしたちに体験することが可能となる。フロイトは夢に出てくるシンボリックなアイコンや、物語の進行の仕方にある一定の基準を見出し、その基準から、潜在内容を通した無意識の現れ方、すなわち夢を見た人間の精神医学的な構造を明らかにしていく。現在、フロイトの道具立て(男性性または女性性への還元など)によって患者の精神医学的な内容を判断するのはあまりにも危険であるが、顕在夢を逆行的に潜在内容、さらには無意識へとたどっていくという構造は、未だ有効な方法論として用いられている。


この図式にKOSUGI+ANDOの作品を重ねた場合、作品は顕在夢に相当する。そしてその作品を鑑賞するということは、顕在夢から潜在内容を探っていくということ、すなわち夢判断に相当する。そのとき、夢の潜在内容に当たるのは「作家の欲望」であり、夢を形作るための諸々のイメージに当たるのは、作家が、あるいはわたしたちが体験したことのある諸々の「現実」である。夢判断とKOSUGI+ANDOの作品の構造は決して同一であるわけではなく、あくまでも擬似的なものである。だから作品の中には作家の個人的なイメージだけではなく、共通の現実としての要素が存在するのであり、体験そのものも夢ではなく現実である。二人の作品の中にある現実は社会的なものであり、日常的なものでもある。社会的なもの、日常的なものには、必然的にそれを体験する鑑賞者が結びつけられ、そのとき作品を解釈するということは、そのように作品内の「現実」に結びつけられている自分自身を分析するということと切り離して考えることができなくなる。KOSUGI+ANDOの作品の中に入るということは、自分自身がかかわる世界の中に入るということであり、それは日常の枠組みにおいて捉えられるべきものである。



2. 椅子あるいは母親


KOSUGI+ANDO作品には、頻繁に椅子が登場する。そこでの椅子の役割は、以下の三種類に大別することができるのではないだろうか。


・観客/作者の視線の置き所

椅子からある種の視線が投げられているということを指し示している。まなざしの場所。


・「座る」という日常性の記号化

椅子に座る、つまり人間がそこに座るということであり、椅子の存在が、そこに座るべき等身大の人間のイメージを作り出す。その身体は、見えないが、存在している。ミニチュアの椅子はさらに記号化されている。


・不在の存在の場所

座る場所(座板)を持たない骨組みだけの椅子が使用されている。現実にはそこに座ることはできない。座るべき人の不在、あるいは不在の存在とも言うべきものがそこに置かれている。


一般的な椅子の機能を大きく分類すると次の三種類が挙げられる。


・権力の象徴として

玉座につくナポレオン1世の肖像画や、椅子に座る道元が描かれた肖像画(頂相)が紹介される。玉座は世界を見下ろすために座る場であり、禅の最高位にあった道元の座る椅子は、一般的な民衆の世界と、禅的、宗教的世界をつなぐためのトランスミッターとして機能している。


・家具として

安らぐための椅子。


・非日常/脱日常として

1. 歯医者の椅子、床屋の椅子

特徴的なふたつの椅子は極めて類似しているが、それは、18世紀までは歯医者と床屋が同じ職業であったということに由来している。歯医者の椅子を日常的であるとは一概に言えないところがあるが、床屋の椅子はそれに比べるとかなり日常的なものであると言える。

2. 座位分娩用の椅子

アフリカには、生まれたばかりの赤ん坊がいちばん最初にお母さんの顔を見られるようにして作られた椅子がある。

3. 電気椅子

最後に安らがせるため? 玉座の逆転としての、死のための椅子。


ここでレイフ・ファインズ監督、主演の映画『英雄の証明』(2011)が紹介される。シェイクスピアの悲劇『コリオレイナス』が原作となっている。コリオレイナスとは、古代ローマにおいて、ほんの僅かの間だけ王になることができたという実在の人物である。映画は物語の舞台を現代に置き換えており、王位に就いたコリオレイナスは床屋の椅子に座る。それは玉座であると同時に、コリオレイナスの信者となった兵士たちがスキンヘッドにするためにも、つまり実際に床屋の椅子としても使われている。非日常的で象徴的な玉座、日常的で現実的な床屋の椅子という二重のイメージ、非常にねじれた、アンバランスな両義性がそこに与えられている。


続いて、座板のない椅子についての考察が述べられる。まず、座板がなければ座ることができない。安息することができない。分娩することも、死ぬことも禁じられている。いろいろなことをタブーとするような静かな暴力がそこに潜んでいる。


あるいは、ベビーベッドの傍に椅子が置いてある場合、最初にそこに座るべき資格を持った人物はおそらく母親である。ベビーベッドの中の赤ん坊は、原発そのものであり、その赤ん坊が原発のある県のかたちを鉄板で切り出して作られたガラガラの音を楽しみながら微笑んでいたり、眠りについて夢を見ているという風景は、よく考えれば極めてブラックであると言える。そして椅子に座るべき母親はそこにいない(座板のない椅子)。母親は不在であり、母親自身、自分が出産したかどうかという自覚がないまま、先に埋葬されてしまった赤ん坊に対して、圧倒的に無頓着である。無頓着なあまり、自分の姿をそこにさらすことすら忘れてしまっている。


この場合の母親は、記号的には国家と科学技術であり、それらは原発=赤ん坊という超越的なエネルギーのかたまりを産み落とした。前回の安藤のプレゼンテーションの中で、「原発を管理しているというよりは、それを見つめる人々のほうを管理しているのではないか」という非常に重要な指摘があったが、そのことはベビーベッドの傍に椅子が置かれていて、母親が原発を管理しているようでいて実際には不在であるとともに、国家と科学技術の管理の目は市民のほうに向けられているということとして、作品の中に見て取ることができる。かつての市民がかかわっていた国家によって原発は建設され、現在国家は今そこに住んでいる人々を管理している。



3. 社会性/日常性


このテーマに触れるにあたって、まず三つの問いが提出される。はじめの問いは、芸術作品に社会性は必要かということ。次に、その場合の「社会性」とは何かということ。三つめの問いは、社会性を帯びた芸術活動は、アートを利用した「社会活動」と呼ぶことができるかということである。ここで考えていかなければならないのは、社会性ではなく、社会性を背後から支えている日常性である。わたしたちは日常の生活の中で、徐々に制度を受け入れ、社会化されていく。「学校」「会社」「大人」といった鋳型に流し込まれ、納税の義務や投票の権利を与えられ、わたしたちは次第に社会性の度合いを高めていくだろう。日常においても、家のしきたりや約束事など細かな制度があるのだが、それとは別に、つまりそうした制度の内部の活動としてではなく、制度をも包含した日常、いわばより広い日常の一切合切の中にわたしたちは生きている。わたしたちが何気なく生きているそのような日常の「生き具合」のようなものを考えるということが、作品の制作、あるいは理解にとって必要なことではないだろうか。


社会性/日常性を考えるという行為の中には、ある種の前提が含まれている。ここでは四つの前提が取り上げられる。


・3.11の位置づけ(なぜ3.11か?)

『二番目の埋葬』と『遷移状態』において、3.11は特定の日付を指し示しているだけではなく、「3.11的なるもの」をすべて含んだアイコンとなっている。つまりそれは歴史の一点ではなく、歴史の中のひとつのかたまりであり、それを考える者は、必然的に歴史の中に含まれている。


・〈可能態〉としての当事者

当事者とは誰か。そこに直接的に関わっている人だけが当事者ではなく、3.11を意識し、それに対して意図的に何かをしようと考えるというだけでも、十分に当事者としての可能性を読み取ることができる。例えば誰かがニュースを見て「大変だ」とか「ひどい」と思っただけでも、その者はすでに非当事者であるとは言えないという考え方もある。


・人は誰でも(日常)生活者である

わたしたちは少なくとも、3.11以降の日本という時間性と場所性を持つ日常を生きている。


・〈外部〉と〈内部〉の境界

外部と内部、作家と鑑賞者、当事者と非当事者。そうした境界があるのかどうかを問わなければならない。例えば、「非当事者」という記号は、外部の人間の口を封じ込めるために用いられるひとつの言説なのだろうか。「当事者」にしても、「非当事者」にしても、あるいは「日常生活者」であっても、すべては包括的な日常の中のいくつかの側面に過ぎないのかもしれない。日常、非日常という言葉もまた同様に相対的なものであり、明確に規定することはできない。


最後に、3.11をテーマとする以前に、KOSUGI+ANDOが扱おうと考えていたという「代理母」について触れられる。代理母とは、子供が欲しくても解剖学的な理由で出産することのできない夫婦が、他者の身体を借りて出産する場合を指す。精子提供者、卵子提供者、子宮提供者、養育する夫婦という最大で五人がかかわる例が紹介され、その際の母親という当事者性、さらには母親の不在についての問題が指摘される。


以上で小林による45分のレクチャーが終了し、続いてディスカッションが開始される。始めに安藤泰彦によって、レクチャーに対する感想が述べられる。



ディスカッション



姿を現す管理システム


安藤泰彦:3.11もそうだが、色々な問題が代理母というひとつの社会的問題に関わってくる。経済的、社会的問題。テクノロジーが生み出したものであり、それが人間の生死にかかわってくる。この一年間の事態の推移を見ていると、テクノロジーと自然という対立項だけで考えるのではなく、小林さんが母親として提示した、経済的なシステムと複合している管理システムの役割を考えていかなければならない。3.11を巡って、経済や政治、あるいは有識者などをも含めたネットワーク、もしくはシステムといったものが可視化されてきている。作品を作っていた時点では、母親の役割はそれほど意識されておらず、そうしたことが今になってようやく意識化されてきたという意味では、わたしは小林さんと同じ鑑賞者としての立場でもある。いろいろなものを境界化し、区分けした上で管理していこうとするシステムがかなり明確に姿を現してきている。最終的にはそれが3.11だという気がする。それから夢の話を持ち出したのは、逆解釈で作家の欲望へと収束させるのではなく、多様な解釈を生みだすことに重きがおかれていた。また、小林さんによる『遷移状態』についての話、物語、わたしたち(KOSUGI+ANDO)はある意味でそうした物語を欲している。空間の中のばらばらな要素をつかみ取って、一貫したものではなくとも、要素と要素を結びつけながら、鑑賞者自身が物語を作っていってほしい。


小林昌廣:作品、現実、作家の欲望というものの解釈のループの中で、作品においてどういうものが欲望されているかということだ。


安藤:今回の二作品は、それをぱっと見て分かるというような作品ではないという気がしている。椅子を解釈し、ベッドを原発としてイメージするということは、鑑賞者が物語を作るという作業に近い。そうした特性を重視するのが、わたしたちの作品であると言える。またわたしたちのインスタレーションにおける椅子は、実際に座ることができるという意味で、やはり特殊ではないだろうか。映像の中の椅子には座れない。それは象徴化され、オブジェ化されている。インスタレーションの椅子は座れるが、単にそれだけではなくて、鑑賞者の位置など、ある種の役割を与えるというような両義性を持っている。また、社会性と日常性については、小林さんが語った社会性が見出されるのは、私たちが生きている日常であるということが言えるだろう。日常を通して社会性、様々な問題、権力構造などが見えてくる。そこから表現としてのモチーフが出てくるというのは確かである。


前田真二郎:〈可能態〉としての当事者について、もう少し詳しく聞きたい。


小林:実際の行為や表現に至らない状態ではあるが、行為や表現への移動を可能としている潜在的な力を持っているという状態が「可能態」だ。当事者であっても非当事者であっても、社会活動をするとか貢献するとか、そういう力を秘めている状態というイメージで「可能態」という言葉を使った。



区分けが問題を矮小化する


前林明次:安藤さんが「社会派」と呼ばれたときのことを聞きたい。


安藤:題材として原発を直接的に扱っているということに対して、「社会派ですね」と言われた。わたしはそれに対して「社会派ではなくて、普通の作家ですよ」と答えた。普通の作家であれば、現実に生起しているいろいろな社会的問題に触れることはそれほど特異なことではない。どのような作品を作っていても、社会的、歴史的、文化的な問題が背後にある。それを区切ってしまうこと、エンターテインメントとか、テクノロジー派とか、純粋芸術派などとして区分けすることによって、問題が矮小化され、ひとつの表現の中の多様性が狭められてしまう。あえて社会派と呼んでしまうことで、作品の中の複合的な問題が素通りされ、直接的な社会性だけが対象とされるのではないか。


前林:ジャンルを細分化する「名付け」というのはおそらく、芸術をひとつの自立した閉域として捉えたうえで、そこにキーワードとなる言葉をトッピングし、それを扱った芸術というものがまた生まれるというような流れであると感じた。アートと技術、あるいは自然と人間、それぞれは繋がっている問題であると思う。「社会派」も芸術を閉じたときに発生する名付けのひとつであり、今後もさまざまなジャンル化が起こっていくということが考えられるが、そもそもそういう関わりでいいのかということが、問われるときに来ているような気がする。


三輪眞弘:今までの美術や音楽は「純粋芸術派」だった。純粋に美を求めていないものは邪道だという考え方が基本にあり、社会的な問題を取り扱うのはそれ自体で不純であると考える人が少なからずいた。もちろん今はわたしたちは誰もそうは思っていないという状況だ。


小林:マスコミライクでは社会派の中に積極的社会派と消極的社会派があって、その外側に反社会派というのがある。ものすごく教科書的に言えば、多くのアート作品は、積極的社会派ではないにせよ、少なくとも反社会的ではなく、消極的社会派ということになるのではないだろうか。


安藤:おそらく次は、原発をテーマとするわけではないが、それを含んだ現在の状況の中から作り出される作品という意味で社会的な問題を扱うということになるだろう。小説家ミヒャエル・エンデと彫刻家ヨーゼフ・ボイスの対話の中で、両者は互いに、それぞれの表現の中で現実の社会のいろいろなものにアプローチしていくということについて話している。アートという舞台においても、様々な可能性が考えられる。


小林:社会性を支えている日常性を拡張したり、その曖昧さを指摘したりするということも、その可能性の中に含まれるのではないか。



一人としての二人


前田:KOSUGI+ANDOは、インスタレーション、いろいろな要素を空間に配置していくということを続けてきたユニットであるが、実際にどのようにそれが作られていくのだろうか。制作プロセスについて聞きたい。


安藤:ずっと「一人としての二人」でやっているようなものだ。コンセプトについては互いにそれぞれの思いがあるが、そこに出現するのは「ひとつの」形である。互いがテキストを解読し、その問題点を詰めていくのはもちろんであるが、最終的にはそこで展示される「ひとつの」プランが大きな収束地点としてある。最近の二作品に関しては、プランニングされた空間に対して、現場での変更が加えられている。『遷移状態』では、空間的な配置ばかりでなく、映像や音声、スライド、回転台などの大まかなプログラム、シークエンスを用意しておいて、後は現場で撮影したり、観客として作品を体験する中で調整を行う。近作においては、調整にかなりの時間をかけている。昔はどんな展示でも基本的に搬入期間は一日しかなかったが、今は展示まで時間があるため、そういうことが可能になった。


小林:原発で行こうと言ったのはどっち?


安藤:それも二人。かなり悩んだが、『Innocent Babies』を作っていたということもありつつ、しかしこんな問題を短期間でできるわけがない、でもやるしかない、ということで。


小林:普通は一人の作家の中で葛藤が起こる。続けてやろうとか、もっと新しいことを探そうとか。それを二人でやっている。



「読む」という行為を要求する


安藤:前回、前田さんから質問のあった「装置の可視化」ということについて話したい。ここでの装置とは、インスタレーションの空間自体を装置とするという意味ではなく、回転台やプロジェクター、画像変換などといった狭い意味でのテクノロジー装置のことを言っている。『二番目の埋葬』においては、被写体となっている二重螺旋の椅子、それを映像に変換する装置、それから投影された映像というのは、それぞれ独立しながら、関係を持っている。変換するという機能自体を作品内で見せようとしているということ。変換する機能自体がひとつの作品要素だ。投影装置を見せるということは、鑑賞者に自分がいる場所を意識させるということにもなる。『遷移状態』においては、最初の状態はHDプロジェクター(見せていない)と映像との関係、次の状態では、スライドプロジェクター(見せている、回転台の上で回っている)と画像との関係が、それぞれの状況を構成している。スライドプロジェクターが壁に画像を投影しはじめるとき、鑑賞者は「回転するスライドプロジェクターと同じ空間の中にある」という場所の問題を意識せざるを得ない。そうした二つの状態を経て、再び最初の状況に対するとき、先程は意識されなかった観客のいる場所が意識されてくる。また装置の使用に関しては、最近は装置自体のキネティックな動きに着目している。装置の規則的な運動性と、それが映し出す映像の変化。そういう差異には意識的だ。


三輪:特別な体験の中に入っていく、今ここではないところに連れていくということが、インスタレーションにおいて前提とされているとするならば、例えば携帯電話で話しているときなど、今ここではななくなるという感覚をわたしたちは日常的に体験している。その中で作品はどのように成立しているのか。


安藤:夢においては視線がどんどん変換され、主体が変化していくということがままあるが、その特徴を重視している。夢の中には具体的な身体がないため、まなざしからその身体性が様々に変換されながら作られていく。その特性を作品と結びつけている。同じように、夢から覚めてもまだ夢であるという夢の二重構造も取り上げている。ひとつの空間を外から眺めているはずなのに、まだ内部であるといった様相を取り出している。そういう意味ではそこは夢一般としての空間ではなく、わたしたちがピックアップして仮構した夢空間であると言える。その上で指摘しておかなければならない大きな違いがある。夢の場合、没入してしまえば、それが夢であるかどうか、現実であるかどうかを意識しない。しかしインスタレーションは虚構空間であり、それを虚構であると眺めている視点がある。虚構であるということを知りつつそこへ入っていくという、ある意味ではゲーム空間でもある。体験するだけではなく、演じている、舞台空間に近くなっている。


三輪:まなざしの移動が、夢の、映画のカットのようなものではなく、現実空間を求めているということ。空間においてのまなざしの主体が意識されているということが夢と異なるということなのだと理解した。


安藤:迷路状の空間を探りながら歩いていくような作品もある。夢において空間性が主体とともに視線によって作られるように、作品の中で鑑賞者が空間を探りながら移動し、その空間を読み解いていく。


前林:鑑賞者が持つイメージを意図した上で空間の中に物を置いているのか、あるいは連想的にいろいろな意味が積極的に生まれるようにして物を置いているのか。


安藤:ある種のストーリーがこちらにあっても、結びつけていく行為を鑑賞者に委ねていて、それがなければ成立しないということが言えるのかもしれない。置かれているものが単体で何かということは分かるようにはしている。そうした連想の糸は作っている。「見る」ではなく、作品を「読む」という行為を要求するということにこだわりがある。自覚的に読むという行為を求める。作品体験はそうした行為によって作られていくものではないだろうか。



KOSUGI+ANDO作品における椅子の使用例


最後に安藤自身によって、椅子を使用した自作の紹介がなされ、そこで作品の中に登場する、座れる椅子、座れない椅子について、作品内におけるそれぞれの意味が語られた。


・『とはずがたり』

講演者と聴講者、それぞれの位置はスチール椅子によって代行されている。座れる椅子であると同時に、いくつかの位置を指し示すものでもある。人が移動することによって、椅子の意味も、その空間性も変化する。


・『Flash Back』

座れる椅子。家庭用のどこにでもある椅子。そこに座って写真を見る、座ることによって写真と対峙させられる。写真と対峙するための場所、そのためのひとつの視点を展示しているようなものだ。


・『二番目の埋葬』

・『アクタイオーンの夢』

・『ベールという名の本』

座れる椅子であると同時に、文脈の中での位置を指定している。ガラスの向こう側の椅子は、絶対に座れないという位置性を持っている。


・『穏やかな落下』

座板がある椅子と座板のない椅子がある。座板のない椅子は、仮想の身体が座る場所。リアルタイムに映されている空間内の映像に、予め撮影された一人の仮想の身体が入ってきて、座板のない椅子に座る。


安藤:インスタレーションにおける椅子とは、象徴的な記号というだけではなく、具体的に人が座れてしまうということで、濃厚に日常性を帯びている。完全な虚構ではなく、鑑賞者が座るという行為を通して、虚構の場所と日常の場所が地続きとなっているという不可思議さが、インスタレーション自体のおもしろさのひとつだ。椅子をピックアップすることで、そういうところが見えてくる。椅子という視点から改めて作品を俯瞰していくのは、自分自身興味深かった。



KOSUGI+ANDO HP



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a.Laboは来る7月20日(金)19時より、特別イベントとして〈フォルマント兄弟の「兄弟式日本語ボタン音素変換標準規格」公式説明会〉を開催する。


シリーズ「a.Laboからの応答」は次回が最後のP-dayとなり、7月26日(木)18時30分より、に三輪眞弘によるプレゼンテーションが行われる。



(佐原浩一郎/IAMAS 研究生)

(左)前田真二郎  (右)三輪眞弘

(中)安藤泰彦