安藤泰彦

-世界の中心大垣で未来の文化を考える-

シリーズ:a.Laboからの応答 #3P


安藤泰彦(メディア・アート)

応答―『二番目の埋葬』『遷移状態』(KOSUGI+ANDO作品)を中心に



作家による第3回目のプレゼンテーションは、小杉美穂子と共にKOSUGI+ANDOの名称で活動している美術作家、安藤泰彦が担当した。



現実とは微妙に異なる「もう一つの世界」


KOSUGI+ANDOの作品はインスタレーションという形をとる。本日の内容を県の担当者に伝えたところ、「インスタレーション」という言葉について説明を求められたという事実が示すように、この語は実はまだそれほど一般化されていないのではないかという気がしていると安藤は述べる。その形態は1970年代に一般化されたという向きもあるが、日本においてはその頃から増加し始め、「インスタレーション」という言葉については、安藤の実感としては1980年代に入ってから新聞や美術批評誌に載り始めたということである。


一口にインスタレーションと言っても、KOSUGI+ANDOのインスタレーションは二人に固有の形態を持っている。それは、一般にインスタレーションと呼ばれる形態における様々な要素のうち、いくつかの特定の要素が重んじられているという意味において、そのように言うことができる。ひとつは空間全体を作品とするということである。空間の中に置かれている物質的な装置が作品であると言うよりは、その空間の全部を作品化するというところに比重が置かれている。もうひとつは体験、それはつまり眺めるというだけではなく、感じ、聴き、触れるというような五感の体験、さらには考えるという体験である。考えるということは、体験の場において考えることであると同時に、体験自体をもう一度捉え直していくということでもあり、そのような契機を持つことがアートには必要であると安藤は言う。


二人に特徴的なのは、何よりもまず「もう一つの世界」を作っていくこととしてインスタレーションを把握しているということである。それは、現実とは微妙に異なっているもう一つの世界であり、小説や映画などとは異なって体験者自身が入っていくことのできる世界である。体験者は物理的身体を伴い、その虚構の空間の中へと巻き込まれていく。ここで安藤が重要視しているのは、空間の中へそのように「巻き込まれる」ことであると述べられる。そのことは、安藤がインスタレーションを手掛け始めたときにその説明として用いられていた、「役者が観客自身である舞台」や、「絵画空間のフレームが拡がって、見ている人がその中に入り込んだ」などといった言葉へと遡ることができるだろう。



潜在内容⇄顕在内容


そうしたアナザー・ワールドは、現時点において「夢の空間」というところに行き着くのではないだろうか。前林明次『Container for Dreaming』との比較においてそれを言うならば、KOSUGI+ANDOのインスタレーションは「Container of Dream」と名付けることができる。閉じられた展示空間は、それ自体が誰かの夢であり、その中に観客が入り込み、巻き込まれていく。



フロイトによると、「夢の材料」を使って夢を見ることを、「夢の作業」という。夢の材料とは、身体刺激、起きているときに見たイメージ、そして欲望を表す組織的思考とされているが、そのうち欲望を表す組織的思考は「夢の思考」と呼ばれ、夢の潜在内容とされている。夢の作業とはつまり、夢の潜在内容が、実際に見る「夢」として顕在化されることである。そのプロセスにおいて、夢の材料は様々な検閲を受け、変形を施されるのである。フロイトはそのような検閲、変形のプロセスを解釈(夢判断)することで、わたしたちに情報として与えられた顕在夢から逆過程を経ることで潜在夢を探っていくのだが、その作業がKOSUGI+ANDOの作品化および作品解釈のプロセスに重なる部分があると安藤は述べる。逆過程をたどって、一方では夢の潜在内容を判断しようとすること、他方では作品の背後にあるような思想に迫っていくことや、新たな解釈を生み出すこと。


夢の中では、その夢を見ている人物の視点が次々と移り変わっていく。「わたし」は、その視点として生成し、視点の移り変わりにおいて主体は変容していく。あるいは別の特性として、悪夢のような場合、容易に抜けられない空間性を指摘することができるだろう。さらには、身体の移動に伴って空間が新たに生成されていくような性質。夢における主体や空間についてのこうした特質を、KOSUGI+ANDOの作品において重ねて見出すことができるのかもしれない。二人の作品の中で、夢あるいは記憶そのものがメインテーマとなっているものは決して少なくない。


夢あるいは記憶そのものがメインテーマとなる作品

『アクタイオーンの夢』(1986)

『NINE ROOMS』(1989)

『Flash Back』(1990, 1991)

『Pendulum』(1995, 1996)

『反復―こんな夢を見た』(2001)

『BEACON』(2001, 2004, 2010)



夢の世界から現実の世界を俯瞰する


その中でも最初期のものが1986年の『アクタイオーンの夢』である。京都市美術館二階の全室を使用し、一室には砂を敷き詰め、その中を歩いて巡っていくという作品であり、それはギリシア神話の『変身物語』の中での、アクタイオーンという人物が森の中をさまよい泉に達するという物語が下敷きとなっている。設営時、砂の扱いに苦労したというエピソードが挿入された後、作品の構造が説明される。


入り口には空間のミニチュアが置かれており、ここで空間を俯瞰することによって、空間の中を移動する自らをもう一度見るための視点が与えられる。砂の敷き詰められた部屋は夢の中であり、そこには沢山の白いパネルが立てられている。パネルには断片的な言葉が書かれていて、パネルに沿って空間をさまようと同時に、読むという行為もそこに連動させられている。夢の中と外に椅子が設置されていて(中の椅子は少し傾いでいる)、夢においての、あるいは夢に対しての視点が与えられている。体験者は、さまよいながら中心に到達し、それから夢の空間を出ていくのだが、夢の外には再び夢の中のミニチュアが置かれており、たった今体験したばかりの空間を、異なるまなざしにおいて見ることとなる。


「もう一つの世界」、「夢の容器」。なぜこのような作品を作ってきたのかということの説明として、二つの欲望が挙げられる。一方では、ひとつの空間を自らのイメージで埋め尽くしたいという強烈な欲望があり、他方では、自らにとっての現実の世界から抜け出したいという欲望がある。二つの欲望は、次のようにして世界の移行をもたらすだろう。まず、自分がいるにもかかわらず、そこにいないような気がする、疎外感のある(「実存的外側性」を伴う)現実の世界がある。それに対して、架空の世界を生み出し(「代償的内側性」を付与し)、現実の世界から架空の世界へと脱出する。そうして得られた新たな位置から、現実の世界の俯瞰を可能にする視点が発生する。すなわち、現実の世界はそれまでとは異なる様相を呈し始めるのである。自分がいる場所から飛び上がり、そこから自分のいた場所を捉え直すことによって。


KOSUGI+ANDOは、そのとき自分たちの抱えている社会的、文化的問題、メディア環境の問題、美術的問題などを、アートという文脈の中に、インスタレーションという形態の中に顕在化させていく。昨年は原発関連のテーマを扱っていたことから、「社会派」という言葉を担わされかねなかったが、 同じ社会的テーマが継続して存在するということではなく、その時々で自らと最も密接な問い、存在にかかわる問いを作品化するという姿勢に基づいて主題が決定されている。



『Innocent Babies』


2011年に発表された二作品は、「追い立てられるように」作ったものであるという。未だそれらについて距離をおいて見つめることができていないが、今回はそれについて話そうと思うということが述べられる。それら二作品を作るきっかけとなっているのが、原発問題をテーマとし、1995年に福井で発表された『Innocent Babies』である。年月を経て福島での事故が起こり、非常に空しい気持ちとともに、この状況に対して行動を促す何かがあり、5月に『二番目の埋葬』を、10月に『遷移状態』を作ったのだと安藤は言う。


『Innocent Babies』は、現在でいうところのメディアアートの祭典である「福井ビデオビエンナーレ」の中で発表されたものである。まずパブリックアートの制作依頼が入り、人の生と死の根幹にかかわるテクノロジーとしての原発をテーマとして選定する(福井県には15基の原発がある)。制作は、チェルノブイリ原発事故が念頭に置かれており、鉛の棺に入れられて葬られ、土に戻ることのできない消防士の遺体や、フィンランドの不妊運動(「生まない」という宣言)についての解釈を通して、未だ制御することのできない「無垢な赤ん坊」として原発を位置づけるところから始まった。


展示は福井県立美術館と福井県立みどり図書館の二箇所で行われ、作品はそれぞれ「埋葬」、「図書館」と呼ばれた。「埋葬」は、無垢なテクノロジーとしての原発を埋葬し終えた未来が、舞台として前提とされている。原発がなくなった未来において、原発というテクノロジーを哀悼する。部屋の中には原発の墓碑銘として15台のベビーベッドが円形に配置されている。それぞれのベビーベッドに貼られたプレートには、個々の原発の名称、動き始めた年月日、廃炉となった仮想の年月日が刻まれている。ベビーベッドには、人間の判断によって産み落とされることがなくなってしまった胎児、あるいは人間によって生み出され、葬り去られる原発という両義性が与えられている。中央には鉛の棺のようなものが置かれ、そこに組み込まれたモニターには亡くなった消防士の名前や、放射線各種の元素記号などの文字が流されている。床は原子炉の炉心が模されており、空間の隅に設置されている2台のモニターには原発に関する様々な情報や、アニメーションが映し出される。鑑賞者はこのような空間を体験することとなる。


「図書館」は、吹き抜けとなっている二階部分に、一階の閲覧室を見下ろすように4台の鉄製ボックスが設置された作品。鉄製のボックスは原発を暗示している。この図書館自体が、原発交付金と切り離して考えることのできないものではないかと思われる。そして、展示期間中、二階の展示スペースまで上がってくる人は非常に少なかった。安藤の実感として、それについて「触れてくれるな」という雰囲気がそこに存在していたということである。そこは原発を中心として成立している場所であり、それに依存している人も少なくはない。反対に、原発の反対運動に参加している人からは、賛否の態度を明確にするように迫る意見もあり、それら二種類の反応には大きな落差が見られた。



『二番目の埋葬』


2011年5月、メルトダウンの発表が立て続けにあった時期にKOSUGI+ANDOの『二番目の埋葬』が発表された。約1年前だが、すごく昔のことのように思えると安藤は言う。非常に慌ただしい状況であり、少し離れた位置から状況を見てみたいという気持ちが強く、制作することによって、精神的にも安定するのではないかと思ったという。


作品タイトルの『二番目の埋葬』は「廃炉」を指しており、それにはヒューマンスケールを超えた非常に永い時間を必要とし、わたしたちは世代を超えてそれを見守っていかなければならないだろうと安藤は考える。放射能汚染と、遠い未来におけるそこからの再生。そうした情景と、それに注がれる複数の視線。空間への配置物はそれぞれに多義的な意味を与えられている。


入り口のディスプレイには『Innocent Babies』の記録映像が再生されている。部屋の中に入ると、二重螺旋がイメージされるように、小さな椅子が壁に連ねられている。中央には一台のベビーベッドと椅子が置かれ、その下には鉛に覆われた土壌と植物が見えている。奥の壁には、上下移動するカメラによって捉えられた、壁に対して垂直に取り付けられている椅子の風景が映し出される。上下移動が、映像においては左右の移動となるように、カメラは90度回転した状態で設置されている。リアルタイムの映像は、展示以前に同じ位置から撮られた映像と時折合成されながら、プロジェクションされている。途中、上から土壌へと接近していく映像に切り替わる。土を覆っているのは鉛であるが、土そのものは福島の土ではない。仮想的な空間を作るために、そうした要素は抽象化しているという。


慌ただしい状況の中で作られたものは、非常に静かな作品となって出来上がった。制作時には意図していなかったことだが、水平線上に並べられた椅子の映像が、津波のイメージとどこか重なって見えてきたと安藤は話す。



『遷移状態』


慌ただしい状況は急速に収束していくかのようである。「工程表」が発表され「安定状態」が示唆される。報道と自らを取り巻く状況との間には大きな隔たりが存在している。「風評被害」という言葉が生まれ、あるところでは、それは言表の抑圧装置としても機能した。そして安全に管理することは可能だという「安全神話」が早々と復活する。そのように、事態はなしくずしの様相を呈する。


原発問題についての感受性が異なる。地域間、世代間、あるいは男女間においても。もっと暴力的に、この状況を揺り動かすようなものが作れないだろうか。それはこの作品の中で特に風景において問題化されている。制作に先駆けて福島を訪れる際、安藤はマスクや長袖を用意して現地入りしたのだが、そこでの風景は何ら特殊なものではなく、心的には抑圧されているにせよ、そこには普段通りの日常があった。ほとんど関西と変わらないのだが、何かが違っている。風景の持つそうした状況を可視化することができないだろうか。


作品は『遷移状態』と名付けられ、ベビーベッド、椅子、モビール、スライドプロジェクターの置かれた回転する円形の台2組が空間の内に配置されている。ベッドの上には「がらがら」がゆっくりと回っている。空間内には気象放送の音声が流され、壁に風景映像が流される。人の接近により突然がらがらが停止し、壁にはスライド写真が投影されていく。気象放送の音声は、放射線情報へと切り替わっていく。スライドプロジェクターが置かれた台は回転し、壁に投影される画像は視点の固定を許さないようにして左へ右へ、鑑賞者の影も含めて無秩序に急速に流れていく。それが終わるとスライドは送り戻され、がらがらが再びゆっくりと回り始め、シークエンスが繰り返されていく。


投影されるスライド写真は福島市内の風景であるが、まるで大垣と見まがうような、特別なところのない風景である。台が回転しはじめると、風景は周囲をランダムに飛び回るようにし、瞬間的に残存するにとどまり、鑑賞者は画像を安定して見ることができなくなる。そのような空間にスライドを送る機械音、台を回転させるモーター音が重なってくる。



三つの前提:継続性、多様性、無力感


2011年に制作した二つの作品は、状況に巻き込まれながらの行いであり、片方は静かに見ていこうとするもの、もう片方は、ある種の苛立ち、その時の心的状況が作品に反映されている。昨日、東電をはじめとする各電力会社の株主総会で、脱原発の提案はすべて棄却された。このような状況で、作品としてどのように応答していけばよいのか。3.11への応答に当たって、安藤は未整理であるとことわりつつ、三つの前提と、四つの問いの提示を試みる。


前提1:3.11を原発事故としての側面から見た場合、事故があってそれが既に収束したものとして認識するのではなく、未だ終わらずに続いている事態として捉えるべきではないだろうか。先日、大飯原発が再稼働し、これから起こっていく様々なことも含めたスパンの長い期間として3.11を捉えるということ。同様に、二つの作品はひとつの端緒とされる。時間的に区切ろうとする力が様々な場面で働いているが、そのような時間的な分割を疑っていかなければならない。


前提2:応答の仕方は多様であり、個人的に意見を表明したり、表現として応答することもできる。その場合、表現者に固有の表現手法があるので、応答はその中で決定されざるを得ない。しかし、この現代に表現を試みる者として、3.11を問うことは避けられず、ではどうすればよいのか…。ある種の多様性を了解しつつ、表現として…。


前提3:表現における応答は、直接的な社会的効果、運動につながらない。それを言い切るかどうかには迷いがあるが、この際言い切ってみよう。ではそのような直接的ではない表現としての応答が、どのようなものにつながっていくのか。応答が連鎖していくことによって、共同体が現れてくるというのか。作っていて大きな無力感に苛まれるが、それを折り込んだ上で何ができるか。



四つの問い:場所、時期、境界、当事


問い1:『Innocent Babies』は、福井という「現場」において展示され、「現場」を問題視したものである。2011年の二作品は、関西という「安全地帯」で展示され、そこで問題とされているのは、福島という「現場」ではなく、「安全地帯」と「現場」との関係、つまり作品が展示されている関西という場所と、福島との関係である。このように、単一の場所ではなく、複数の場所の間の関係性を見据えることによって、サイトスペシフィックという概念の問い直しが可能となるだろう。


問い2:二つの作品はそれぞれある一定の期間に生み出されており、それぞれが特有の状況の中で構想され、制作されたものである。3.11への応答は、ある時期、ある日付を課せられざるを得ないのではないだろうか。


問い3:3.11以降、人が設定してきた様々な種類の境界が、様々な仕方で越えられてきた。津波は、防波堤や丘という境界を、目に見えるかたちで乗り越えていった。「遠く」という概念についてのそれまでの人間的な把握は破られた。原発事故は、目に見えないかたちで境界を侵犯する。行政の境界は無視しながら拡散していく放射線は、事後的にデータとして開示される。


放射線量の値はダイナミックに変化する。それに合わせて行政は制限のレベルを設定していく(居住制限区域、避難指示解除準備区域など)。ひとつは同心円で。ひとつは市町村の境界に合わせて。さらには番地単位で細分化され、散財するホットスポットに至るまで考慮されている。そうした区分は賠償の問題と密接にかかわっている。しかし、どこまで細かく線引きしていったとしても、必ず逃れていくものがあり、それが境界を攪乱し、境界を不完全なものとするだろう。そのような場所に着目していくことが重要ではないだろうか。


原発の実体とは乖離のある工程表が公表され、原発事故を管理されているものとして扱っているのだという姿勢がアピールされている。空間的にだけではなく、時間的にも区切りながら原発を管理対象とする動きが常にあるが、それは原発を管理しているというよりは、むしろそれを見つめる人々のほうを管理することが目的とされているという捉え方があり得る。


問い4:わたしたちは当事者と非当事者を分けてしまうが、そうではなくすべてが当事者であり、それぞれがその水準や状況の異なる当事者であるとして捉えていく必要があるのではないだろうか。それは原発の問題にとどまらず、ある事象について体験していない者が、それについて語り得ない部分は確かにあるのだが、その上で、当事者と非当事者を分かつものを疑っていきたい。


最後に安藤は、自らを一人の「当事者」として認め、次の応答につなげていきたいということが述べられ、プレゼンテーションは終了する。



ディスカッション



『遷移状態』のようなタイプの作品はこれまで作ったことがない


前林明次:中国の展示で、インスタレーションは「装置的作品」と訳されていた。わたしはそこで言われている「装置」を、ひとつの働きを持つまとまりとして捉えており、それは夢と共通する部分だと思って話を聞いていた。その中で主体が意味のある解釈を作っていく働きを持つものとして装置を捉えると、夢とインスタレーションは重ね合わせて考えることができる。その中でも『遷移状態』は特殊であり、装置の中で主体に意味の生成をもたらす働きとしてではなく、そこでは装置自体がある種の情動を持っていて、訴えかけていくものとして存在しているように感じた。


安藤:空間自体が鑑賞者をどこかへ連れていく装置であるという言い方をこれまで採用していた。『遷移状態』のようなタイプの作品はこれまで作ったことがない。画像が無秩序に動き回り、けたたましく機械音が鳴り響くため、鑑賞者にはそこで考えたりする余裕が与えられなかったかもしれない。


前田真二郎:『遷移状態』は、機械が動いているという印象が強く残った。今回スライドプロジェクターを使用するということについてどのような意図があったのか。例えばアナログメディアの使用など。


安藤:やはり「音」、そして光の強さ。音と同時に消える写真。もうひとつは、HDプロジェクターのゆっくり流れる映像との対比。アナログとデジタルとの差異には意識的だった。



美術という形式における表現の意味


三輪眞弘:アーティストだからこそ、そのように社会問題を扱うのだというスタンスに共感している。福井での展示の話が、自分にとっては今日最も印象深い。あの場所で、あのようなテーマをぶつけていくということ。しかし一方でそれについて騒がれることはなかった。騒がなかった人々は、もしかすると、反対して展示が中止されることでニュースになってしまう可能性を危惧し、無視するのが得策であると判断したのではないだろうか。町には、原発がなければ生活できないという人々が多く存在するというリアルな事実があるのかもしれない。いずれにしても、あの作品はスルーされたのではないかと感じている。半分は意図的に、もう半分は、ビデオビエンナーレに来場する人は美術の愛好家ばかりであるということから。それはつまり、美術が今社会に対してどのような意味をなしているのかという大きな問題につながっていく。美術によって表現するということについてのスタンスはどのようなものか。


安藤:その時、その場で、自分がどう考えたり、生きていったりするかということに結びついている事柄を主題として扱っている。社会的問題を扱っていくというよりは、今述べたような事柄について、当然考えなければならないというスタンスをとっている。福井での展示の時点ではまだ事故は起こっていなかったが、その後にもんじゅのナトリウム漏れ事故が起こる。事故が起こっていないところでそれを喚起すること、あるいは過去に起きた出来事に対して、それを再び想起させるような作品はやりやすいのかもしれないが、現実に今いろいろなことが進行している状況で何をするかについては、お手上げの状態であるように感じている。アートが反対運動に寄与するようなやり方もあるだろうが、自らに固有の表現手法と、さまざまにつきつけられている状況との間で非常に混乱している。


三輪:美術という形式における表現が意味をなしているのかという問題について、どう思っているか。


安藤:意味をなしていると思いながら制作している。福井で発表した作品は、アートの側からも、市民団体などからも反応がなく、大きな無為感に包まれていたということもあり、そこから遠ざかっていたのかもしれない。ジャコメッティの詩がある。「そんなものはみな大したことでない。/絵画も、彫刻も、デッサンも、/文章、はたまた文字も、そんなものはみな/それぞれが意味があっても/それ以上のものでない。/試みること、それが一切だ。/おお何たる不思議のわざか。(テキスト提示)」 元気づけられる言葉である。



今の時代をどのように捉えればよいのか


小林昌廣:『二番目の埋葬』と『遷移状態』に共通して、「椅子」というアイコンが登場するが、どのような意味でそれを用いたのか。人間の等身大を超えた被害や脅威を表すためのシンボルなのだろうか。


安藤:椅子は座るという行為を促す装置であり、そこに座る人体を想起させるような事物なので、時々使っている。見る位置を示すような装置としてなど、かなり記号的に使用している。


小林:重要な問題として、「当事者」が挙げられる。厳密には「当事者であるのか、そうでないのかということを峻別するようなある状況」であるため、「当事者性」としたほうが正当なのかもしれない。当事者でなければ語れないとなると、わたしたちは語りや表現の自由を切られてしまい、平家物語や太平洋戦争について語ることができなくなる。三月に当事者の話が出てきたが、次回それを違うかたちで考えていきたい。


安藤:どれだけ細かくその層を見ていくかということが重要だ。一人の当事者の中にも非当事者的視点がある。その境界はどんどん微細になって移動していく。


小林:3.11は3月11日のことではない。そのような歴史的現実や記号としてではなく、わたしたちには3.11的なものが常に付きまとっている。以前であれば阪神淡路大震災だったかもしれないし、さらに以前となれば太平洋戦争だったかもしれない。何らかの爪痕を残した大災害をわたしたちは現在的なものとして捉える傾向を必然的に持ちあわせている。そういうものとしての3.11へ、どのようにコミットメントしていくか、それが表現者に差し出される難問である。


安藤:今の時代をどのように捉えればよいのかという思いが強い。3.11を事故や震災として捉えずに、それ以降続いている事態そのものを問題化していくことができないだろうか。それは直接に表現となるかどうかはわからない。ただ、自分自身が安定したいというスタンスでもある。


三輪:KOSUGI+ANDOの作品は思考プロセスの残滓のようなものとしてあるということか。


安藤:理論的、思想的になにかがあって、それを作品にしていくということではなく、作品と同時に考えるというスタンスなので、残滓とは言えないかもしれない。どちらかと言えば、前に投げる残滓というニュアンスだ。


小林:KOSUGI+ANDOは、次なる社会的活動を増長させるようなものではない、新たなタイプの社会派であると言える。従来言われていた社会派の芸術とは大きく異なっている。それは3年程前から感じていた。


前田:記号やシンボルを空間に配置し、考えがモデル化された空間という印象を持っている。モチーフとして社会的な問題を扱うことがあるが、その思考モデルを体験するものにもなっている気がする。



サイトスペシフィック


質問者1:福井の図書館での展示にサイトスペシフィック性があるのは分かる。今回の二作品はホワイトキューブで展示されているが、その際、場所についてはどのように考えているのか。ホワイトキューブでも京都と東京とでは変わっていくのか、展示する場所について考えていることを聞きたい。


安藤:福井の展覧会の片方は図書館で、片方は美術館で行われた。美術館であれば、その美術館がどこにあるかという問題は常に抱えているので、美術館そのものはホワイトキューブだが、それが置かれている場所は全くホワイトキューブではない。それを考えていくことがある意味でサイトスペシフィックであると言える。ホワイトキューブという形式、決め事として使う作品はある。今回の二作品は特殊だ。福島から遠く離れていて、東京でもなく、関西で展示されるということで成立している部分はあると思う。


小林:ホワイトキューブであるということがサイトスペシフィックなのではなく、そのホワイトキューブが置かれているローカルがどこかという問題。


三輪:ホワイトキューブが原発交付金で作られているかもしれない。


安藤:交付金で作られているというサイトスペシフィック性はあるかもしれない。



テーマとしての原発の特異性と、過去作品との共通性


質問者2:テーマとして原発が入ってくるまで、KOSUGI+ANDOの作品に社会派的な面を強く感じてはいなかった。二作品からは、これまでの作品とかなり異なる印象を受ける。原発というものが入ってきて、KOSUGI+ANDOの中でも特殊なものになってきているのではないか。去年の二つの作品と、それまでの作品が自分には違うものに見えるのだが…。


三輪:最後の二つの作品が今までの一連の作品と違う部分があるとしたらどんなところがあると考えているか。


安藤:…ちょっと分からない。知覚や場所自体を中心テーマとした以前の作品とは違うかもしれない。作り方も。


小林:『STOLEN BODIES』も臓器移植をテーマにしているので、社会派といえばそうである。外部から何気なく鑑賞者がやってきて、そこに立ち会ってしまう。そのことが後々にそれを反省的に捉えるきっかけとなっている。そこに行って立ち会ってみると、いろいろな経験が見えてくるという共通性がある。


安藤:巻き込まれていって、人が内部をさまようという感じではなく、立ち会うという形としては以前と作り方が少し異なっているかもしれない。


前林:今の問題として原発というものが大きく見えるが、これまでの問題系からは分離するものではないと感じている。臓器移植にしても、どこからどこまでが人間かということを、かなりテクノロジカルに操作できるものだ。自然的な人間に対して、テクノロジーが変形を加えることが可能となっているという意味においては、原発は根本的に人間についての何かを変える可能性を持っていると言える。人間というものの境界に対しての非常に強い意識が感じられる。社会派という言葉が出ているが、それ自体を疑わなければならない段階に来ている。あらゆる専門性の問題だと思うが、そうした枠組み自体を疑わなければならない。そしてそのとき、社会派という言葉はジャンル的に扱われるものではなくなるだろう。


安藤:もし原発の問題がなければ、代理母の問題を扱おうとしていた。それもある意味では社会的問題。生死、人間の生き方と密接に関わってくるため、どうしても考えたいモチーフである。



KOSUGI+ANDO HP



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以上が、6月28日に行われた第3回目のプレゼンテーション・デーの記録となる。次回a.Laboは、7月4日(水)18時30分より第3回目のディスカッション・デーが開催される。


(佐原浩一郎/IAMAS 研究生)