三輪眞弘

-世界の中心大垣で未来の文化を考える-

シリーズ:a.Laboからの応答 #4P


三輪眞弘(音楽)

弦楽六重奏曲『369 Harmonia Ⅱ』を聴く



シリーズ「a.Laboからの応答」、今回で4回目となるP-day(作家によるプレゼンテーション)は、作曲家、三輪眞弘が担当した。


三輪は、自作である弦楽六重奏曲『369 Harmonia Ⅱ』(2006)を「録楽」(生演奏ではなく、記録された音楽のスピーカーシステムによる再生)のかたちで紹介するにあたり、「楽器編成の配置や具体的な演奏技術、記譜など」の「必要な情報」を中心として話を進めていく。


今回のプレゼンテーションは、「a.Laboの活動に関心を持ち集まってくださった方々」のために準備されたものであり、音楽について一定程度の知識を持っている人々にのみ向けられたものでは決してない。そこでまず、弦楽アンサンブルにおいて六重奏とはどのようなものかという、非常に基本的な事柄の確認がはじめに行われる。



日本に生きている自分にどんな作品が書けるのか


弦楽アンサンブルとは、複数本のヴァイオリンなどの弦楽器による重奏である。そこから最も重要な編成である弦楽四重奏、続いて弦楽五重奏、最後に本作で選ばれた弦楽六重奏が紹介される。


弦楽四重奏。一般的な編成は、ヴァイオリン2本、ヴィオラ1本、チェロ1本。18世紀後半、ハイドンによってそのスタイルが確立されたと言われており、それ以来西洋の作曲家が作曲上の新たな実験を試みようとするときに、ピアノ作品と並んで最も多く採用されてきたアンサンブルの編成である。そこで使用される楽器はすべて同じ機構を持ち、極端な場合には同じ一本の木からチェロとヴィオラとヴァイオリンが作られることもある。三種類の楽器によって低音域から高音域までがカバーされており、非常にミニマルな編成、必要にして十分な編成である。ベートーヴェンは新境地に到ろうとするとき、好んでこの編成を選んできた。


弦楽五重奏は、通常の弦楽四重奏の編成にほとんどの場合、ヴィオラ1本を追加した編成である。弦楽五重奏曲は弦楽四重奏曲と比べると非常に数が少ないが名曲が少なからず存在する。


本作の編成である弦楽六重奏は、基本的にはヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、それぞれ2本ずつの編成で演奏される。弦楽六重奏においては、なんといってもブラームスの名を挙げておかなければならないと三輪は言う。重厚な響きを愛する作曲家であったブラームスだからこそ、弦楽六重奏をおもしろいものとして感じていたのではないだろうか。さらに自作にも大きな影響を与えている作品として、シェーンベルクの『浄められた夜』が紹介される。シェーンベルクは、「十二音技法」という調性のない音楽(無調音楽)の理論を提唱した人物であり、後のセリエル音楽などのいわゆる調性のない現代音楽へと連なっていくような試みの開拓者として有名である。

浄められた夜』はシェーンベルクが本格的に調性を放棄するようになる前(25歳頃)に作られたものであり、後期ロマン派の非常に表情豊かな音楽となっていて、今でも高い人気を誇っている。作品は、リヒャルト・デーメルによる同名の詩に基づいており、いわゆるプログラムミュージック(物語や筋書きを音楽的に表現するタイプの作品)となっている。話は、月夜に恋人同士の若い男女が歩いていて、女性が男性に「私は身ごもっているが、あなたの子ではない」と告げる場面から始まって展開していく。音楽的には非常に転調が速いなど、様々な要素において不安定な世界を表現したものであることが察され、物語内容においても音楽的に言っても後期ロマン派的であると言うことができるだろう。冒頭、レの音が低くチェロで演奏されるが、これは月夜を表している。音楽は基本的には何かを表すというものではないが、この場合はプログラムミュージックという範疇の内にあるものとして、心的世界の音楽的な表現が行われている。


ブラームスの弦楽六重奏曲第1番、シェーンベルクの『浄められた夜』、この2曲がおそらく最も有名な弦楽六重奏曲である。なぜこのような歴史的作品をここで紹介しているか。作曲家が弦楽六重奏曲を書こうと思えば、当然先達の曲を意識することになる。それを聴き、「自分はこれを超えられるのか」という葛藤が起こり、そのうえで作曲することになる。先達の弦楽六重奏曲を擁するヨーロッパの伝統の中で、現代、日本に生きているアジア人の自分にどんな作品が書けるのか。そうしたことを考えて弦楽六重奏に取り組んだのだと三輪は話す。



作曲の原理「蛇居拳算」


本作を聴く前に説明しておいたほうがいいと思われる二つの事柄について触れられる。ひとつは作曲の原理について。もうひとつは人間の声の合成について。


音楽には、和声法、対位法といった作曲の原理がある。では自分がどのような原理を使うことになるのかというとき、そこには「蛇居拳算」と呼ばれる演算が選ばれたのだと三輪は話す。演算によって次の状態が選び取られていく、その原理を適用し、作曲の際に演奏家の弾くべき音を決定したのだということである。この原理は、弦楽六重奏曲だけではなく、三輪の他の作品にもたびたび使われている。2007年には美術家マーティン・リッチズとの共同制作によって、蛇居拳算を行いながら音楽を奏でるオブジェ、『思考する機械』を発表している。


蛇居拳算の法則は次のようなものである。プレイヤーには決められた三つの状態のいずれかひとつが与えられる。仮に手をじゃんけんのグー、チョキ、パーのいずれかの状態にするとする。演算するプレイヤーは、順番がひとつ前のプレイヤーと同じ手の形であれば、その形を継続し、異なる形であれば、ふたりのいずれでもない形に変える(プレイヤーAが演算を行うとき、ひとつ前のプレイヤーBがグーでプレイヤーAがグーなら、プレイヤーAはグーを継続し、プレイヤーBがチョキでプレイヤーAがグーなら、プレイヤーAはグーからパーに変える)。そのプレイヤーが演算を終えると、次の順番のプレイヤーが同様に演算を行う。


三輪は蛇居拳算というこのような演算を使って、六人の演奏者が順番に演算し、ループになるように続けていくという演算のシステムを考えた。六人の演奏者が輪になり、内側を向いて演奏する(そのため、客席に対して背中を向ける演奏者が生じる)。お互いを見ながら順番に演奏していくのだが、順番通りに六人を直線で結ぶと、六芒星のような形状になっている。当然演奏者は自分の順番が来たとき、演算によって同じ状態を保つか、状態を変えるかしなければならない。通常作曲家が演奏者に演算しながら演奏するように依頼することは考えにくいので、もちろん音符にしたものを楽譜として渡しているのだという。



和音によって人間の声を作り出す


続いて、「フォルマント音声合成」と呼ばれる、人間の声を合成する理論について説明される。三輪はこの理論から、楽器の演奏によって人間の声を楽器演奏で再現できないかということを考える。


例えば、のこぎり波は非常に多くの倍音を含んでいる。のこぎり波のひとつの音、ひとつのピッチ(音高)は、非常に多くの倍音成分から成っている。こののこぎり波に、700ヘルツ付近を通過させ(フィルタリングし)、出力すると、のこぎり波に含まれる700ヘルツ付近の倍音のみが出力される。それはのこぎり波の基本音と比べて非常に小さな音である。700ヘルツ付近を通過させたのこぎり波と、1200ヘルツ付近を通過させたのこぎり波とでは、異なる倍音が選び取られているため、それぞれの音量(振幅)が異なっている。もちろん、その組み合わせにおいても音は異なる(ある三つの周波数帯を通過させた音が組み合わされてひとつになった音と、別の異なる三つの周波数帯を通過させた音が組み合わされてひとつになった音とは、音色が異なる)。のこぎり波から倍音をどのように切り取るかによって、「あ」という母音に聴こえたり、「え」に聴こえたりということが可能となる。


人間の場合、今の例で言えばのこぎり波に相当する音が声帯で作られ、フィルターに相当する口や舌、口腔の形によって反響するなどする場所が変化する。前の例では三つの周波数の組み合わせに触れたが、例えば日本語の場合、「あ」「え」「お」のいずれかを識別できるようにするためには、フィルター周波数は二つあればほぼ十分で、三つならば少し贅沢だということである。しかし、二人の男性の「あ」の発音の微妙な違いが識別できる程度の精度を望むなら、七つぐらいの別々のフィルターが必要となる。そこから期待されるのは、異なる周波数を持つ発振器の組み合わせによって「お」が聴こえたり、「う」が聴こえたりするのではないだろうかということである。先のフィルターによって周波数の帯域を切り取って加算することによって母音を生成するという仕方に対して、異なるピッチそのものを重ね合わせるという仕方、つまり「和音」によって母音を作り出すという仕方が考えられる。その実験として、発振器によってサイン波(倍音を持たない音)を重ねてみたところ、しっかり「あいうえお」が聴こえたと三輪は話す。


ならばこれを人力、つまり人間が楽器を演奏することによってできないだろうか。ここで三輪は、自らが作曲的にも、人生的にも最も大きな影響を受けた作曲家であると語るクラーレンス・バルローについて紹介する。バルローはオーケストラ作品や、大きなアンサンブル作品で、母音を器楽演奏によって構成することを試みた。三輪は学生時代それに興味を持ち、いつかやってみたいと思っていたと言う。そしてこの弦楽六重奏において、かねてよりの構想が試みられることとなった。



奏法の限定 / 由来 / 楽譜


ハーモニクスという奏法によって、ヴァイオリンなどの弦楽器から倍音を響かせることができる。たとえばヴァイオリンのG線であれば、開放弦で弾いた場合「ソ」(基音)の音が鳴る。つまり、どこも押さえずに弾くと、弦長全体が振動して、「ソ」が鳴る。弦の上から三分の一のポイントを押さえて弾くと、基音のすぐ上の「レ」が鳴るが、同じポイントを押さえるのではなく触れるだけにして弾くと、押さえて弾いたときの一オクターブ上の「レ」が鳴る(倍音)。弦を押さえた場合、押さえたポイントより上、弦の三分の一は振動しない。弦が振動するのは押さえたポイントより下の、三分の二の長さに対応する音高であり、それは基音のすぐ上の「レ」である。対して弦に触れるだけの場合、触れるポイントより下の部分だけではなく、それより上の部分も振動する。そして、上の部分の長さの振動、つまり弦の三分の一の長さの振動が、触れているポイントより下の三分の二の部分へと伝播し、このとき弦全体では、弦長の三分の一の振動が三つ連続することになる(二箇所の節目ができる)。弦の上から三分の一のポイントに触れたときの倍音は、弦全体を三分割した弦長に対応する音高として響くことになる。


第二倍音や第四倍音であれば、押さえるべきポイントは、ヴァイオリンの勘所(ギターのフレットのような、正確なピッチを鳴らすためのポイント)の位置を外れることがないが、奇数倍の倍音、例えば第七倍音などは、勘所からずれたところを触れなければならない。そして、そのずれたところをうまく触ると倍音が聴こえてくる。


再びヴァイオリンのG線を例に取ると、弦の上から三分の一のポイントを押さえ、離し、押さえ、離し、そのように繰り返しながら弾いた場合(トレモロ)、基音のすぐ上の「レ」と、基音(開放弦)の「ソ」とが繰り返し鳴る。同じポイントを押さえるのではなく軽く触れるだけにして、「押さえ、離し」ではなく「触れ、離し」を繰り返しながら弾いた場合、今度は押さえて弾いたときの一オクターブ上の「レ」(倍音)だけが鳴り続けることになり、指を離している僅かな時間には基音(開放弦)の「ソ」には戻らない。そうなるのは、ハーモニクスによってこの場合三分割された弦の振動が、分割無しの振動(基音)へと戻るのに少なからぬ時間を要するためである。つまり、触れ、離しを繰り返すことによって、開放弦から高次の倍音が引き出され、それが持続される。ハーモニクスという奏法自体は目新しいものではないが、そのような「押し、離し」と「触れ、離し」を繰り返す奏法のみを用いて、本作は作られている。


本作が含まれるプロジェクトの最初の作品の中で、その由来が設定されている。「虹の技法」と名付けられたその文章には、かつて南米に存在していた古代ツダ人と呼ばれる民族が、先の奏法のみを使って音楽を奏でていたということが記されている。基本的に、本作のイメージ、コンセプトは、この奏法と由来話に多くが支配されていると三輪は述べる。


楽譜では五線譜の上段に小さな五線譜を設け、倍音が鳴る場合、倍音のピッチを上段のほうに書き記すという工夫が為されている(下段の五線譜では、開放弦(基音)と実際に触れる、または押さえるべき弦のポジションが指定されている)。


曲の冒頭は定められた順番に従い、しばらく蛇居拳算を繰り返しながら演奏される。ある奏者が「さっ」(!)と声を出すと、ループしていた蛇居拳算の初期値がひとつだけ変わり、そこからそれぞれの状態が次々に変化し、多様な音響が生まれてくる。


本作は2011年9月18日、若い世代の中で最も実力を認められている演奏家らによって再演された。2011年3月13日に予定されていた演奏会の中止を経てのことである。非常に感慨深い演奏で、彼らがこの曲から引き出してくる響きに驚きを禁じ得なかったと三輪は言う。作品は、蛇居拳算という原理に基づいているため、演奏者の間で、視線、目で合図しながら演奏すれば非常にやりやすくなるのだが、通常はそのように演奏されることはなく、ひたすら楽譜ばかりを見て演奏されるしかない。しかし今回の演奏者らは、三輪の用意した五線譜を読みながら全編を演奏したのではなく、蛇居拳算の原理に基づいて自分たちでダイアグラムをすべて書き換え、メモ程度のパート譜に仕立て上げたものを見つつ、対照先の演奏者へと目で合図しながら演奏したのだということである。


以上の事柄が説明され、2011年9月18日に栃木県立美術館で演奏された、弦楽六重奏曲『369 Harmonia Ⅱ』の録音が再生される。再生終了後、三輪から、録音状態が決して良好というわけではないが、ここに集う人たちにぜひ聴いてほしかったという旨が述べられる。



質疑応答



豊かさは演奏家が作っている


安藤泰彦:非常に感情的、ロマン派的、情感にあふれている。アルゴリズム以外の要素がとても多くあるように感じる。説明を聞いているうちは、もう少し冷たい進行なのかと想像していたが、そこから最終的に生み出されてくる曲との間にかなり大きな距離があるように感じる。この作品において、蛇居拳算のシステムはどれほどの比重を占めているのか。ある意味では大きな枠組みのようなものとしてあるのだろうか。


三輪眞弘:蛇居拳算を使うことによって、この作品が素晴らしいものになったり、つまらないものになったりするということはあまりないと思っている。その意味では比重は低いのかもしれない。しかし、従うべき何らかの規則が必要とされ、そこに蛇居拳算が選ばれたという意味においては、比重としては決して低いとは言えない。前者の意味合いからすると、この曲をすごく退屈に弾くこともできる。だけど演奏者らは、例えば弓の返しを荒々しく行う(チェロ奏者はかなりグキグキと)などして、そうするようにとも、そうしないようにとも指示されていないところで、いわば設定された由来の中のツダ人になりきってくれたというふうに私は解釈している。


安藤:蛇居拳算によって何を移行させていたのか。


三輪:この曲の場合、ピッチというよりは、弦と倍音、「第何弦の第何倍音」かをアルゴリズムによって決定していった。使われている楽器の弦の数はいずれも四本。各楽器の開放弦のピッチは、チェロは「ド、ソ、レ、ラ」、ヴィオラも「ド、ソ、レ、ラ」(オクターブは違うが)、ヴァイオリンは「ソ、レ、ラ、ミ」で、すべて合わせても「ド、ソ、レ、ラ、ミ」の五種類に限られており、「ソ、レ、ラ」はすべての楽器に共通している。倍音は七倍音までを使用しており、つまりこの曲に現れるのは、五種類のピッチの七倍音までの組み合わせのみとなっている。倍音について説明を加えると、例えばチェロのいちばん低いドの弦では、ひとつめの倍音はオクターブ上のド、次がソ、その次がド、ミ、ソ、シ♭、ド、レ、ミ、ファ♯……、大体近似だがそうした倍音が出る。七倍音ならばド、ソ、ド、ミ、ソ、シ♭、ドまでが使われる。どの弦のどの倍音を弾くかということが、蛇居拳算によって決定されていく。


前田真二郎:単純に、蛇居拳算を元にしているとなると、三つの状態があって、六人の演奏者がそのいずれかの状態にあるということになるが、その状態が単音というわけではなくて、どのようなものとしてあるのか。


安藤:最終的にはアルゴリズム以外の身体性がどのようにしてあるのかということを聞きたいが、その前にアルゴリズムがどのようにして現れているかについて理解しておきたい。


三輪:この作品は、本当に演奏家に負うところが多い。ハーモニクスを出すように指示すれば、演奏家は簡単にきれいな音を出すことができる。しかし彼らはあえてきたなく響かせたりということを意図的に行っている、つまり彼らの解釈が多分に入っていると思われる。豊かさは演奏家が作っていると言ってもいいくらいで、解釈のモチベーションなしに楽譜通り弾けば、もっとクールなものになるのは間違いない。譜面は非常に簡潔なものなのに、そこからこれだけ引き出したということが、私にとって驚きだった。機械的にきれいな倍音を出せる彼らが、音が出損なったような雑音を生じさせたりしている。そうした部分は、意図してというか、言うなればツダ人になりきってくれたと考えている。



いかに弾くかという余地を欲している


小林昌廣:機械ではなく、人間によって演奏されることで、いろいろなズレやブレが発生する。目で合図を送ったり、演奏しながら声を出したりするのはなかなか簡単ではない。例えばそのような身体性という要素も重要なのか。


三輪:そう思っている。今回、和音によって合成される五つの母音を、演奏者が実際に声に出すところでコーダ(終結部分)に入っていくのだが、そのように実際に声を出したり、目で合図するということも含めて、そうしたことは、楽譜通りに弾きさえすればそれでいいというあり方に、やはり私は反発しているということでもあると思っている。特に現代音楽の場合は非常に複雑な楽譜が多く、完全に正確なテンポでなければ絶対に演奏が不可能なものも多く存在し、もっと言えば、作品における余剰の部分、はみ出すような部分までをも音符で書いてしまおうという作曲家の意図さえも見えなくはない。本作は非常に簡単な楽譜なので如何様にも弾くことができるわけだが、つまり、ある音符をいかに弾くかという、演奏における解釈の余地を、私は現代音楽に対して欲している。


安藤:合成された母音が入るタイミングは?


三輪:聴き取れなかったかもしれないが、いちばん最後のほうは器楽で合成した母音のつもりの和音だ。最終的に母音の和音に終結するという構造になっている。この六重奏を拡張したオーケストラ版を制作したのだが、そちらのほうが私には母音がよく聴こえる。しかしここで合成された母音が、誰にとっても明らかに、例えば「え」に聴こえるということはないということは理解している。


安藤:その構造は、さきほどの蛇居拳算、アルゴリズムではなく、作者が決定しているもうひとつの構造なのか。


三輪:そうだ。「第何弦の第何倍音」というそれまでの原則は、母音を構成する和音へとひとつずつ切り替わっていく。ここでもまた規則に従って、だんだんと母音の要素が増えていく。


前林明次:生で聴くべき作品だということを痛感しながら聴いていた。やはりリアリゼーションの驚きというところが非常に興味深い。イメージはあるにせよ、すべての音を予め出して作曲しているわけではないだろうから、そのリアリゼーションについての驚きを作者がどのように受け取り、また次の作品へフィードバックしていくのかということについて、何かあれば聞いてみたい。


三輪:作曲で指定する部分と、それから演奏家が解釈して決めていく部分との領域が、現代音楽においては非常に狭い場合が多くある。非常に複雑で、音符を正確にただ音にしていくというだけでも困難だったり、演奏家もまた、音符を直接的に弾くだけでよいとする場合も少なくない。現代音楽を取り巻くそうした状況の中、この作品を演奏してくれた彼らは、由来を解釈し、その古代ツダ人の演奏をしてくれたのだと思う。演奏は雑音と倍音が入り交じっているが、私の指定は基本的には通常のきれいな音である。しかし指の圧力を少し変えただけで、きれいな倍音が急にきたない音になることはいくらでもあるわけで、あえてそうしているのは演奏者らの判断だと思う。そのような判断から、この作品をこれだけリアライズしてくれるプレイヤーが出てきている。そのことが、「私もまだまだやってみたい」というようなモチベーションを起こさせてくれる。



従うべき何かさえあれば話しはじめることができる


小林:かなりの部分をプレイヤーに依存する演奏形態であるとすれば、例えば再演とかいうかたちでまた違った音楽になる可能性があると理解してよいか。


三輪:ひとつは私にとってつまらない演奏、あるいは端整な演奏というものがあるだろう。これ以上ワイルドな演奏はあまりイメージできないが、つまらなくない限りは、端整な演奏はそれでまた別のいいところがあり得ると思っている。


小林:私が聴いた限りでは、シルクやベルベットといった肌触りではなく、木綿のような荒削りな音、強い音だというイメージがあった。それはもともとのツダ人の、あるたくましさを反映しているのかなというふうに理解した。


質問者1:時々高い声で「あ」が聴こえてきたりするが、それはそういうものなのか。


三輪:時々聴こえる。そこでは「あ」が鳴るように意図されているわけではない。すくなくとも楽譜ではそういうことを意図してはいない。でも時々聴こえる。


質問者1:最後の何小節かはとてもきれいに弾かれていたが、それは指示されているのか。


三輪:そうだ。はじめのダイナミクス(強弱の指示)はセンプレ・フォルテシモ(常にとても強く)という指示だが、最後の和音のところでスビト・ピアノ(急に小さく)と指示してある。母音和音がいちばん声らしく聴こえることを期待してそうしている。


質問者2:三つの旋律がロジカルに動く感じがするのだが、それは作者の恣意性を入れないように意図されているのか。


三輪:たぶんそうだ。その決まりをなぜ決めたのかということについては私の恣意的な判断であると言えるかもしれないが、そこから先は完全にオートマティックだ。そして、そのような従うべき決まりが私にとっては必要なものである。従うべき何かさえあれば、私は話しはじめることができる。


質問者2:演奏者の主観性と作家の主観性、共に抑制しようとしているのか。あるいは抑制は演奏者のほうに向けられているのか。


三輪:私がこの演奏を気に入っているのは、演奏家の主観がおおいに入っているからだ。演奏家が友達であれば、顔を突き合わせて意図を伝達するなどの余地があるが、アンサンブルではその距離が少し遠ざかり、かなり詳細に書かなければならない。それがオーケストラになると間に指揮者が入り、作曲家との距離はますます大きくなる。オーケストラのプレイヤーは、仕事としてプロとして楽譜通りに弾くが、それ以上は一切やらないという態度の人が多い(個人的な海外での経験から)。普通の弦楽奏者は、本作の演奏家らが鳴らしたような音を出すことはない。雑音は決して出さない。ある意味では生理的に出すことができない。本作のような音を出すことができるようになった最初の世代の演奏家が彼らだ。そういう意味で、今は大きな変化の時期であるように感じている。


(佐原浩一郎/IAMAS 研究生)

前田真二郎

(中)安藤泰彦

会場からの質問