しなゆ
自らや他者が肉体の終わりを迎えることは、捉えようのない「得体の知れない何か」だ。
生がある限り逃れられないその「なにか」。
腐敗、侵食による可視化、記憶と忘却、局在と偏在を循環する生命のリズム。
ライフエスノグラフィでは、「しなゆ(萎ゆ)」現象を辿りながら、その「なにか」を如何に受容できるかを試みる。
プロジェクト研究
Life Ethnography
Life Ethnography Project は、環境(自然・文化・社会)と存在(生命・生活・性・生物・人生・寿命)のありかたを探るプロジェクトである。本プロジェクトでは、いままでIAMASがライフについて取り組んできたさまざまな活動を参照しつつ、人間的な営為のみならず「人間そのもの」へもアプローチを行い、生命論の豊かな地平を構築することをめざす。
出展作品
「た、すなわち、いち」は生きている人に、どちらでもある曖昧な姿である、朽ちている空き家の写真をARフィルターで重ねた作品である。命は生と死、どちらでもある曖昧なものであるはずなのに、私たちはそのことを普段意識しない。朽ちているものの姿を重ねることで、どちらでもある姿を浮かび上がらせる。
2021年3月 金城学院大学国際情報学部国際情報学科グローバルスタディーズコース卒業。景観や風景に興味があり、なぜ人は風景をテーマにするのかをリサーチ中。景観や風景への興味とあそびやワークショップへの興味を組み合わせられないかを考えている。
砂山には安息角というものがある。
石英片岩である硅砂の山は、35度前後の角度以上には積み上がらない。
そのため「35度前後」がこの砂山にとっての終わりである。
しかし、砂山にとっての終わりは砂粒にとっての終わりではなく、流れ落ちた砂粒は次の砂山を生み出していく。
途方もない時間をかけて運ばれ世界を巡り続ける砂粒は、流転する生命のように終わりを迎えることはないだろう。
散り散りの場所から流れ着いたマテリアルを拾い上げることで、異なる文脈を持つ物語同士が出会うことによって生じる関係性を探究している。
現在は流転する普遍的なマテリアルとして砂をテーマに作品制作を行なう。
かつて存在した、人が生まれる場としての仮小屋と綱をモチーフにしたインスタレーション。お産の場を構成する小屋と綱という<メディア>の喪失から、失われた死生観を探求する。生まれ、死ぬことは、未だ私たちの手の中にあるだろうか?
1982年生まれ、大学でフランス文学を学んだ後、システムディレクター・ウェブアナリストとして活動。出産・育児を経て、変容していく社会と技術を捉え直すためにIAMASに進学。
3分間決して水を揺らさないように、手のひらで水面にそっと触れ続けること。 触れる、振れる、ふれる、フレル。個人の歴史は結合組織に折り込まれてゆく。人間は結合組織という無数の弦でできた楽器 だと言える。固有振動を持ち、発信し続ける。何か、誰かに触れる時、意識することなく相手に伝わる身体のバイブレーション。 その移ろい。月夜の晩に、とある現象を見つけた時にそんな想像をした。この現象を体験できるインスタレーション作品。
ボディーワーカーアーティスト
ボディーワーカーとしてヒトのカラダにフレル中で見出される生じては消えていく様々な生命現象をアート作品へと展開する。
液体のような思い出、思い出のような液体(集団肖像画)
2022 , 手配写真の画像 / ボディソープにUVプリント / ボディソープにはんだごて / 水に浸した後の絵日記
京都から遥々IAMASに漂着。ザッブーン。醤油少なめの卵かけご飯が好き。カカオ多めのチョコは苦手。セブンイレブンのささみ揚げが気になっている。甘党。最近は、詩的言語や言語哲学のリサーチに基づいて制作を進めている。
「シュレーディンガーの猫」は生きていると同時に死んでいて、箱を開けて“観測”し、その生死が決定される。これは箱の中を観測する主体の存在が前提である。
死後は無に帰す。死後は人間の幻想でしかない。宗教や芸術は人間という非常に弱い生命のために存在する。人間は生死の循環の中で社会を構築し、生きる。
私は「死こそ永遠である」ことを知っている。自身の身体をなぞり、本作を制作した。本作は【遺影】だ。
秋田公立美術大学卒業
主な展示に、アートアワードトーキョー丸の内2020(東京駅行幸ギャラリー)、SHIBUYA STYLE vol.14~15(西武渋谷)、個展「Unaccounted for “ “」 (GalleryTURNAROUND/仙台)、個展「表層を観測する Observe the surface」(KUNST ARZT/京都)、IAG AWARDS 2019(東京芸術劇場)