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平瀬ミキ《Translucent Objects(半透明な物体)》

谷口暁彦(多摩美術大学情報デザイン学科メディア芸術コース講師)

「映像と彫刻をつなぐ」

2018年12月14日、ICC(NTTインターコミュニケーション・センター)で共同キュレーションとして参加した展覧会「イン・ア・ゲームスケープ」の内覧会とレセプションが行われた。その時に、数日前から同じICC内で始まっていた平瀬ミキの展示《Translucent Objects(半透明な物体)》を見た。キャプションを読むと、平瀬はこの作品を「映像表現による彫刻作品」と呼んでいるそうだ。展示室に入ると、すぐ正面に大きく映像が投影されている。いっけんすると色鮮やかな色面が複雑に重なり合った映像に見える。よく見ていくと、それは様々な色に塗られた小さな直方体の積み木だということが分かってくる。40cm〜50cm四方程度の、それほど大きくない空間の中に、小さな積み木が置かれていく。そして、まるで積み木をダンスさせるかのように時々指で操作してみせる。作品に映る白い空間の中央には黒い穴が空いていて、これがカメラのレンズであることがわかる。2台のカメラで積み木を奥と手前から挟み込むように撮影し、2つの映像の透明度をそれぞれ50%にして重ね合わせて表示しているのだ。

一つの積み木がどこかに置かれると、映像の中ではその積み木の裏と表それぞれの半透明の像が現れる。この作品の構造において、積み木は常に50%の透明度の像として2つに分離し、幽霊のように現れることになる。ゆえに、映像の中で積み木は2つの像のどちらの位置に置かれたものなのかを判別することができない。そして、この分離した像が様々な形で重なり合うことで像を結び、幽霊から再び実体をもった立体が生まれてくる。作品の冒頭、積み木が横一列に置かれていく。しかし奥と手前で不規則に置かれていて、ところどころが半透明で、奥と手前で重なり合ったところだけがはっきりと像が結ばれる。奥と手前で積み木がどのように置かれているかは不明瞭だ。そして、並べられた積み木は傾けられ、像の重なりによって、宙に浮いたような菱形や三角形の立体が生み出される。この立体は、50%になってしまった半透明な映像としての像が、重なりあうことで合成された非実在の立体だ。さらに積み木が追加されていく。色の違いによる混色と、実際の空間での積み木の重なりによって、立体感があった像が急に平面的に感じられたり、まるで空間に覗き穴が空いたかのように窪んだりと、複雑な空間性が感じられてくる。こうした映像の操作によって生まれる立体感や空間性にたいして「映像表現による彫刻作品」と呼ぶことも出来るだろう。しかし、より根本的な作品の構造を考察することで、別の角度からもこの作品が映像による彫刻であることを考えることが出来るだろう。近い構造を持った別の作家の作品と比較することで、この作品の中でどのように「映像」が「彫刻」と結びついているのかを考えてみたい。

例えば、同じように映像を用いながら空間性を操作する作家として、津田道子を挙げることが出来るだろう。初期の「Yeu & Mo」という作品では、限定された部屋のような空間に鏡を配置し、カメラの奥と手前に配置された2つの異なる像の重なりとズレを用いて作品を構成している。

あるいは、時里充のカメラのフォーカスの動作と鏡を用いた映像作品「Camera 2 Paprika 2 Camera」などのシリーズも、近い構造を持った作品として挙げることができる。円形の鏡を画面中央に配置し、撮影しているカメラのレンズのみがぴったりと反射している様子が映し出されている。撮影することの自己言及であり、まるで世界に穴が空いてしまったかのような不気味さも感じられる。

津田道子も時里充も、カメラの前に鏡を配置することで、一台のカメラでは写すことの出来ない「向こう側」と「こちら側」の2箇所の映像を同時に映し出し、映像の中の視線と空間を複数化させる。この構造は、あくまでもそれが一つのカメラで撮影された単一な視覚的平面であるという、映像的な前提の上で構築できるものだ。しかし、平瀬の作品では、そもそもカメラは異なる場所に2台設置されていて、最初から視線が複数であることが前提となっている。そして、その複数の視線が一つの場所で重なり合うことで結像し、立体感をもった像として浮かび上がってくる。ここでは、津田道子や時里充のような単一な視覚的平面が前提とされていない。異なる角度からの視線が、ある場所で重なり合い、ひとつの像を結ぶということが起きている。そして、これはそもそも彫刻作品を作る時のプロセスに他ならない。

彫刻は、現実の空間の中で様々な角度から見られてしまう表現形式だ。だからこそ、その制作の過程で制作者は、何度も色々な角度から眺め、その離散的な視線を中心に凝縮するかのように、ひとつの像へと結像させ、作品を生み出す。同じ構造を、フォトグラメトリによる3Dスキャンのプロセスにも見いだすことができる。つまり、単一な視覚的平面ではなく、複数の離散的な視覚を前提とし、それがどこかの座標で重なり合い、結像するという条件において、平瀬が言う「映像表現による彫刻作品」として映像は彫刻と接続しうる。

あるいは、この作品を眺めていると、映像とはそもそも透明な彫刻、あるいは彫刻の幽霊なのかもしれないと思えてくる。モホリ・ナギは、自身の造形教育についての理論を「ザニューヴィジョン―ある芸術家の要約」としてまとめているが、その中で彫刻表現の変化を5段階に分け、彫刻が徐々に非物質的なものへと移行していることを指摘する。透明な樹脂やガラスの使用といった直接的に透明で非物質的な素材の使用から、キネティックアートのような動きの残像によって生み出される立体性などに言及し、彫刻のヴォリュームは、運動によって生み出される像へと変わっていったとしている。そして、それは最終的にはサーチライトの光や、映写機などで投影される映像へと移り変わってゆくことを示唆している。この、彫刻から映像への移行は、メディアテクノロジーの導入によって視覚的な表象が物理的なモノから引き剥がされていくプロセスでもある。こうしてメディアによって引き剥がされ、透明になった映像が、再び重なり合って像を結び、それがかつて彫刻だったことを思い出させる。平瀬ミキの《Translucent Objects(半透明な物体)》は、そのように映像というメディアの中で、わずかに残る彫刻性を取り出してみせたり、あるいは映像というメディアを用いて、彫刻が作られるプロセスを記述しようとした作品なのかもしれない。