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メディア越しの観察者 クワクボリョウタ《コレクションネット》を読む

伊村靖子(国立新美術館情報資料室長 主任研究員)

 私がクワクボの作品に寄せる関心は一貫している。それは、近年のクワクボが作り手であると同時に受け手、つまり観察者としての立場を貫いている点にある。今から5年前、岐阜県美術館で開催された「みるこころみるかえりみる」展※1のカタログに寄稿した際、私はクワクボの取り組みを、マルセル・デュシャンの「遺作」※2の鑑賞体験に喩えた。「遺作」は、作品鑑賞であると同時に、鑑賞者による「見る」という行為を思い切り拡大させる装置でもある。クワクボのねらいもまた、そうしたところにあると考えたからである。今回、千葉県立美術館で開催された《コレクションネット》を観て、さらに気づいたことがある。奇しくもまた「遺作」に因むのだが、《コレクションネット》では、作品を「見る」ことを経て、様々な資料を通じて「読む」行為へと誘われたのだ。本論では、私が本展をどのように読んだかを論じていくこととする。

「コレクション・ネット」会場風景

千葉という表象

 今回の目玉の一つに、本展にあわせて委嘱された新作《LOST#19 しおさいのくに》を挙げることができるだろう。「LOST」は、《10 番目の感傷(点・線・面)》(2010)以降、サイトスペシフィックなインスタレーションのシリーズとして継続されており、今回は「房総の海」をテーマに制作されたという。Light / Objects / Space / Time(光/物/空間/時間)の四要素の頭文字を取った「LOST」は、移動する光源をたよりに壁に映し出される風景や影の動きを追い、その映像を作り出す要素となるさまざまな日用品に目を凝らしながら、それぞれの関係性に想像を巡らせることができる。確かに、千葉の風景に取材し、現地で入手することのできる日用品によって構成された作品と考えることができる。しかしながら、今回の展示の見どころは、そのような「サイトスペシフィティ」、つまり特定の場に帰属することへの関心だけではなく、むしろ特定の場に起因する共同幻想を問い、そこからの距離の測り方を各自が見出すところにあったのではないだろうか。チーバくんとの対話によって進行するもう一部屋の展示は「試作」として展開され、千葉をめぐるさまざまな表象が未完のまま示されていくところに特徴がある。

メディア越しの表象

 そもそも、場の固有性を考えようとする際に去来する考えがある。それは、その土地固有の文化や独自の生態系と並行して、県境や国境を越えて人が移動し、居住したところに育つ関心や、マスメディア越しの情報に基づいて形成されてきた知の体系があるということだ。クワクボが問題とする千葉の表象は、現在から過去まで遡り、様々な時代に点在するが、全て書籍や新聞、CDやレコードなどの参照元をもつ。クワクボは、そうしたいわばメディア越しの表象を読むことで、様々な立場の書き手や作り手と共通の関心の場を探ろうとする。そこに場(サイト)の可能性を探ろうとしているように思えるのだ。
 展示室の入り口で最初に出会う、巨大な落花生の彫刻《千葉P114000号》は、建築家フレデリック・キースラーの1950年代の模型《エンドレス・ハウス》(1958-60)から着想を得たものだという。私は、最初にこの落花生を目にした時、日常のありふれたモチーフを巨大な彫刻として複製して見せる、ポップ・アートの彫刻家クレス・オルデンバーグを想起した(おそらくこれも「間違って」はいないだろう)。しかし、落花生の彫刻と並置されたインタヴュー映像や資料を読んでいくにつれ、クワクボの関心が別のところにあることが見えてくる。品種改良によって人が入れる大きさの落花生が栽培できるかどうかを調査するところから始まり、3Dスキャニング、モデリング技術によりシミュレーションし、造形する。その間をつなぐ想像力は、フレデリック・キースラーの《エンドレス・ハウス》によるということだ。
 キースラーは、ヴァルター・グロピウスが『国際建築』(1925年)において述べ、バウハウスの理念となった言葉「造形は機能に従うものであり、国を超えて、世界的に統一された様式をもたらす」に象徴されるような、いわゆる機能主義の考え方に対して批判的であった。これに対してクワクボが解説で引用したのは、キースラーによる以下の言葉である。「形は機能に従わない。機能はビジョンに従う。ビジョンは現実に従う。」※3そこから、千葉の特産物をモチーフに、クワクボはキースラーのビジョンに感銘を受けた研究者の物語を構想する。バイオ燃料の効率的な確保のため、落花生の実を大きくする研究に励んだ成果が、建築技術へと転用されるという架空の物語である。
後で知ったことであるが、グロピウスの着想は、同時代の関心に遡れば19世紀の生物学、ジャン・バティスト・ラマルクが提唱した生物の進化論「用不用説」が源流とされる。つまり、生物を機能的に捉えようとする思想の延長上にバウハウスのデザインの美学が生まれた。キースラーは、その機能的な思想を「生技術」によって乗り越えようとしたが、そのビジョンを品種改良によって実現しようとする物語は、陳腐にも思われる。ここで改めて、キースラーの図面が模型から起こされ、実現しなかったことを思い起こすならば、未完のままあらゆる実現の可能性が残されたことにこそ、結果的に意味があったと考えられる。そして、計画と実行という要素に着目するならば、この作品に限らず、今回の展示に通底するテーマとして考えることができるのではないだろうか。
カプセルホテルとしての運用を目指す、《千葉P114000号》の品種改良をめぐって

計画と実行

 都市のプログラムには、様々な計画と実行が含まれている。例えば、電車の運行、県民の健康管理、埋め立てによる地形の変化など、一見するとバラバラの出来事が、都市計画の一部であることに気づかされる。今回の展示のうち、千葉駅から東京駅へ向かう総武線快速電車の運行状況を定点観測した試作映像では、10本の線路を行き来する電車の様子が映し出される。クワクボによれば、千葉から東京へ向かう電車は毎回、出発するホームが異なるという。そのため、乗客は次に発車する電車のホームを探して右往左往する。この意図せずして同期する乗客の振る舞いに「千葉らしさ」を見出すのが、クワクボのスタンスである。そして、この作品にも参照元がある。ブライアン・イーノの《Ambient Music 1: Music for Airports》(1978)である。イーノの本作は、能動的な聴取の経験を促す、環境音楽である。聴取という、聴衆の側に委ねられてきた行為を音楽の中に据えるという点で、イーノの作品は音楽を経験として捉え直す契機の一つとなった。このことを都市のプログラムに当てはめるならば、計画やビジョンを乗客やその場に暮らす人々の立場から確かめることが聴取の行為に重なる。本論で考えたいことも、作り手と受け手が重なるところにある読みの可能性なのである。
 クワクボが、埋め立てによる地形の変化を示す地図の展示において参照したのは、ソル・ルウィットの「ウォール・ドローイング」である。誌面の見開きに掲載された《Straight Lines in Four Directions Superimposed》(1969)は、ニューヨーク近代美術館のウェブサイトによれば1969年に構想され、1974年に実行された※4。ルウィットの「ウォール・ドローイング」は、設計図に沿って作図者(ドラフトマン)によって描かれる。アーティスト自身が作図者になることも可能である。しかしながら、アーティストは、自らのプランがさまざまに解釈されることを許容しなければならない。作図者はアーティストのプランを受け入れた上で、自身の経験と知識に照らして内容を再構成する。たとえアーティスト自身が作図者であっても、あるいは同じ作図者が二度同じ設計図に基づいて実行した場合でも、二つの異なる芸術作品ができあがる。つまり、ルウィットが考案したのは、アーティストが描くことの社会性であり、描くためのシステムである。ルウィットを下敷きに、クワクボが地図の中に見出したものを読み取るとすれば、それは都市の表象のシステムだったのではないだろうか。

千葉駅から東京駅へ向かう総武線快速電車の定点観測による試作映像(左)と運行状況に基づくスコアの制作(右)

メディア越しの観察者

 都市の表象のシステムを確かめるため、今回クワクボが取り組んだことのひとつに「なのはな体操」の再構成がある。「なのはな体操」は、1983年に時の知事の肝煎りで計画された「健康で明るい県民づくり運動」の一環で発案された。クワクボは、この体操の成り立ちについて、当時の千葉がベッドタウンとして全国第一位の人口増加率を示していた時代背景を考察する。そして、知事の生まれ育った環境から、ラジオ体操(国民保健体操)の放送や郵便局員によるラジオ体操の普及活動を経験したのではないかと推測する。体操はしばしば動員と重ね合わせられるが、そのイメージを払拭し平和主義の運動として仕立てられたのが、新県民体操という読みである。発表当時を示す資料として、「なのはな体操(新県民体操)」のレコードやパンフレットが展示され、パンフレットに記された振り付けの解説と表記は、楽譜や指示書のように綿密に記されていることがわかる。しかし、クワクボの展示はここで終わらない。これらの資料に基づき、1986年に発表された映画「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」に倣い、巨大な菜の花のマペットで「なのはな体操」を再構成したのだ。その記録映像は、「なのはな体操」の音楽とともに繰り返し会場で上映されていた。筆者が訪れた時には、映像につられて身体の記憶を呼び覚まし、体操し始めた観客がいた。改めて、新県民体操の浸透ぶりを見せつけられたのである。
 メディア越しの観察者とは何か。クワクボは、落花生、菜の花、チバニアン、伊能忠敬などの様々な事象や作品を等価に観察しながら、一見バラバラに見える物事の中にある共通の関心を接続していく。それは「千葉らしさ」が必ずしも地縁に集約されるばかりではないように、メディア越しの経験によって媒介される、ローカルなネットワークを探り当てる行為である。実はそこにこそ、新たな場(サイト)の可能性が開かれているのではないだろうか。

なのはな体操の再構成に用いられたマペット(左)と記録映像(右)

写真提供:千葉県立美術館
撮影:木奥惠三

 

※1 IAMAS ARTIST FILE #06 『みるこころみるかえりみる』クワクボリョウタ 会田大也(2018年9月8日〜11月3日、岐阜県美術館) https://www.iamas.ac.jp/af/06/ (2023年10月20日閲覧)拙稿は「Design by Art, Art by Design——クワクボリョウタの作品」同展カタログ、62~77頁。

※2 マルセル・デュシャン《与えられたとせよ 1.水の落下、2.照明用ガス》1946-66年、フィラデルフィア美術館所蔵。通称「遺作」。本作には、サイトスペシフィックな展示に加えて、試作やメモ、ドローイングなどの関連作品、資料があり、解読の対象となっている。

※3 山口勝弘『環境芸術家キースラー』(美術出版社、1978年)187頁。

※4 https://www.moma.org/collection/works/80641(2023年10月20日閲覧)