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レポート

イベントレポート

「上演」が明らかにする映像作品の意義

秋庭史典(名古屋⼤学教授・美学芸術学)

 本展タイトルのVideōは、解説にあるとおり、「私は⾒る」という意味です。近代の視覚芸術作品が、「「私は⾒る」を⾒る」を⾒せるものであったとするなら ※1、本展は、「解体され作り直されつつある「私は⾒る」を⾒る」を⾒せるという仕⽅で、現在において映像作品がもつ意義を問い直しています。
 この問い直しについて、展⽰作品を参照しながら、考えていくことにします。各作品のごく⼀部にしか⾔及できないのをあらかじめお詫びいたします ※2

岐阜県美術館、情報科学芸術⼤学院⼤学の共同企画による「IAMAS ARTIST FILE #07 ウィデオー/からだと情報」は2021年12⽉21⽇から2022年3⽉6⽇に開催された。

 「私は⾒る」から派⽣しそれを解体するもっとも基本的な問いは、「⾒ている私とは誰なのか」です。フェミニズムやジェンダー論は、これを「眼差し」の問題として繰り返し論じてきました ※3。現在この問いを書き換えるなら、「⾒ているのは⼈なのか、それとも⼈を超えたものなのか」となるでしょう。そしてこの「⼈を超えたもの」が⾃然やテクノロジーであることにも同意していただけると思います。⾔うまでもなく、現在のわたしたちは、テクノロジーが⾒たものを通して世界と⾃分を⾒ており、いずれが主体でもなくもつれあっています。「私は⾒る」は、解体され、作り直され続けているのです。

IAMAS出身の映像表現を専門とするアーティストによる3⼈展。会場:岐阜県美術館 展示室2

 しかし、このもつれあいが、スマートフォンと⼀体化したわたしたちに意識されることはもはやありません。であるなら逆に、現在の映像作品が⾒せなければならないのは、まさにこのもつれあいのはずです。では、どうすればそれを⾒せられるでしょうか。
 そこで導⼊されたのが、「情報」と「からだ」 ※4という、本展のサブタイトルにもなっているふたつのキーワードであると考えます。⽊村悟之さんの作品「⾶⾏物体」では、スマホの現在地検索のもとになっているGPS測位「情報」と、その誤差に翻弄されるパフォーマーの「からだ」が扱われています。GPS情報が、変化する⾃然的・⼈為的条件のもとで不可避に⽣み出す誤差のせいで、パフォーマーは、あちらまたこちらへと、徒歩で延々と移動を繰り返すことを強いられます。そうしたパフォーマーの「からだ」を、それが過酷な移動のなかで⾒る絶望的な光景と不条理な移動の軌跡、すなわち「からだの情報」を通して「⾒せる」ことで、あのもつれあいが観賞者の意識に上るしかけになっています ※5
 かつての映像作品は、この関係を、「私は、(テクノロジーが⾒たものを通して)⾒る」という⼈間的主体の問題として⾒せました ※6。が、「⾶⾏物体」は、いまのわたしたちがそれとはまったく別の現実に⽣きていることを、明らかにしているのです。

《飛行物体》(2022) 木村悟之

 こうしたからだの動きが、新たな情報技術を介して「私は⾒る」 ※7と組み合わされると、次なる問いが導き出されます。それが、「情報技術によりもたらされた、「からだ」のどのような動きが、どのような「⾒ること」を作り直しているのか」という問いです。この問いに深く関わっているのが、萩原健⼀さんの作品「TRAIN」です。それは、タブレットに向かって⽇本語をフリック⼊⼒する⼈物の動作をタブレットの内側から動画撮影したもので、展⽰では、多くの⼈の同じ⼊⼒動作が⽐較できるよう、収集された動画が並べられていました ※8。それにより、「ある(新たな)メディアに対して最適化されていく⾝体の振る舞い」 ※9が⾒せられているのを観賞者は「⾒る」ことができたのです。
 この「TRAIN」がわたしに思い起こさせたのは、鏡に写る⾃分をその鏡のうえに指で描き、描かれた像をモノタイプで写し取った画家設楽知昭の作品です ※10。「鏡ヨリモノタイプ」と呼ばれたその作品は、鏡の向こう側から指で描いている画家を⾒ている点で「TRAIN」に似ています。しかしそれは、⾃⾝に「絵の⽅法」を取り戻そうとする画家個⼈の苦闘から⽣まれたものであり、そこでの⾝体の動きは、最適化から程遠い苦難に満ちたものでした。
 これに対し、「TRAIN」で際⽴つのは、同じ年格好をした多数の男⼥が、ひたすら同じ場所を⾒つめて同じ動作をしている馴致された集団の不気味さであるとともに、同じ年格好であるがゆえに浮かぶ微かな差異に萌す密かな個体的欲望の不穏さです。わたしは、この密かな欲望がささいなきっかけで集団的悪意になだれ込む恐ろしさを想像せずにはいられません ※11。が、こうした想像をさせることもまた、わたしたちがいま⽣きている深淵を指し⽰すという、現在の映像作品にしかできないことであると思います。

《TRAIN》(2018–2022) 萩原健一

 そしてさらなる問いが⽣まれます。それは、こうした「⾒ること」と「からだ」の動きとは、それを取り巻く「環境」とどのようにインタラクトしているのか、またそれらの関係の変化はどのようにすれば取り出せるのか、また取り出された変化はどのようにすれば「⾒える」ようになるのか、という問いです。堀井哲史さんの四つの作品が、その答えを与えています。それらは同じモーションキャプチャーとオーディオのデータから ※12、考えられる限りのあらゆる情報を引き出し、⾒えるようにします。そこでも重要なのが、ダンサーとVRダンサーからなる多重の「からだ」になります。このからだは、そこから情報が引き出される源のひとつ(からだの情報)であると同時に、引き出されたさまざまな情報を集約しながらそのすがたを気象のように変えていく乗り物(情報のからだ)でもあります。ダンサー周辺の空気の流れの変化、ダンサーの動きが幾何学的な軌跡を描く瞬間、ダンサーの視線が素早い動きのなかで向けられる場所の変化、さらにはモーションキャプチャーのシステムそのものといった、テクノロジーでなければ ※13 捉えることのできないさまざまな情報が、⼈間のからだというもっともなじみぶかいものの動き、ならびに分⼦状・ひも状などのさまざまな形態の変化を通して浴びるように感じられ、⾒えるようになっているのです ※14

《Behind the Scenes /Left》(2021), 《ENDLESS IMAGINARY》(2021), 《Behind the Scenes /Right》(2021) 堀井哲史

 最後に、これらの映像作品がなぜ現在のわたしたちに必要なのかについて、データサイエンスとの関わりから触れておきたいと思います。
 ⼀⾒、どの作品も、取得された膨⼤な量のデータからこれまで⾒えていなかった何かを発⾒するという点で、データサイエンスとの親近性が感じられます。「⾶⾏物体」では、不条理な歩⾏により積み重ねられた軌跡データから、(詳述はできませんが)この作品のもうひとつの柱、「ホムツワケ」神話に関わる重要な⼿がかりが発⾒されています。「TRAIN」においても、その基礎にあるのは、アーカイブされたフリック⼊⼒のデータでした。堀井作品についてはもはや⾔うまでもないでしょう。
 しかしそれらすべてに、データサイエンスとは決定的に異なっている点があります。それは、これらの作品が、データサイエンスがそれまでの技術⽣態系に対して⾏使する破壊と作り直し、またそこで⽣まれつつある新たな⽣態系やそこでの価値観を、⾒たことのない仕⽅で動く⼈間のからだ—不条理な移動を強いられるからだ、観賞者に向かってフリック⼊⼒するからだ、気象のように変化するからだ—によって「上演」していることです。この上演の⽬撃者つまり観賞者は、それが何かわからないまま、作品から決定的な⼀撃を喰らうことにより、⾃らが⽣きる現在に⽬を向けるよう仕向けられます ※15。そしてこの⼀撃がある限り、映像作品がその意義を失うことは絶対にない。わたしにはそう思われるのです。

 

⽂献
秋庭史典(2020)『絵の幸福−シタラトモアキ論』みすず書房
オーリン, マーガレット(2002)「眼差し Gaze」(⽥中正之訳)ネルソン+シフ編『美術史を語る⾔葉』ブリュッケ, pp.372-391
新⽥博衞(1980)『詩学序説』勁草書房


※1 新⽥1980では、「眼をもって眼そのものを⾒る」(p.161)という⾔い⽅で、そのことが指摘されていました。セザンヌの絵画など。

※2 それぞれの作品の基本データや制作意図等は、解説やインタビューで詳細に語られていますので、ここでは割愛します。

※3 「⻄洋・⽩⼈・男性・市⺠階級」など。オーリン2002参照。

※4 「情報」と「からだ」は(前者が⾮物質、後者が物質というかたちで)対⽴するものではありません。どの作品にも「からだの情報」と「情報のからだ」が現れます。

※5 このとき「からだ」は、衛星・地表・地図・⽬の前の⽵藪といったさまざまなもののあいだで引き裂かれているでしょう。

※6 クローズドサーキットのように、⼈間主体の認識に関わる⾃⼰⾔及性(わたしは⾒られているわたしを⾒ているわたしは⾒られているわたしを…)をテーマにした哲学⾵の作品はかつて数多くありました。

※7 煩瑣なのでこう書いていますが、実際には、「解体再構築の途上にある「私は⾒る」」の意味です。

※8 印象に残るのは、フリック⼊⼒する指先の動作よりも、その動作を⾒つめる強い「眼差し」の⽅です。

※9 萩原さんが2022年2⽉23⽇のオンライントークイベントで語られた⾔葉から。

※10 1980年代から90年代にかけて制作された。秋庭2020,p.41など参照。

※11 わたしが思い浮かべているのは、たとえば、SNSのコメント欄に書き込まれる⼤量の「定型⽂」に⾒られる集団的悪意(⼈を殺す⼒をもつ)を⽀えている個⼈のひそやかな欲望です。もちろんこんなふうにネガティブに受け取る必要はありません。

※12 同じく2022年2⽉23⽇のオンライントークイベントでの堀井さんの発⾔から。以下も同じです。

※13 もちろんその前に、優れた制作者でなければ。

※14 ダンサーの⼿に持たせたライトの効果のように、作者が加えたものもあります。

※15 この⼀撃は、センセーショナルなものである必要はありません。⼀⾒穏やかで重い⼀撃の⽅が、あとで効いてくるものです。本稿で指摘した、不条理さ、不気味さ、不穏さは、その例です。

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