「つくる」のは誰? ICC キッズ・プログラム 2026「みかんのやくそく」で考える、テクノロジーと創造
NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]で、ICC キッズ・プログラム 2026「みかんのやくそく——つくって、とらえるメディア・クリエイションズ」が開催されている。会期は2026年7月25日から8月30日まで。企画・総合ディレクションを赤羽亨(IAMAS、glow)と鹿島田知也(ICC)が務め、生成AI、AR、3Dデータ、空間音響など、現在のメディア・テクノロジーを用いた5つの体験型作品が展示されている。 撮影:冨田了平

写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]
ICC キッズ・プログラムは、ICCのリニューアルオープンと同じ2006年にスタート。以来、夏休みの恒例企画として、子どもたちがメディア・アートやテクノロジーに触れながら、ものの見方やとらえ方を広げる場をつくってきた。これまでにも、身体や音、学び、プログラミングなど、その時代のメディア環境を反映したテーマが取り上げられている。
企画開始から20年目を迎える2026年のテーマは、「つくる」ことだ。会場には、身体を動かしたり、ものを転がしたり、影をつくったりと、難しい知識がなくても参加できる5つの作品が並ぶが、展覧会を通底しているのは、「つくる」とは何か、という根源的な問いだ。
自分が身体を動かすと、コンピュータがそこから思いもよらないかたちを生み出す。自分がつくった影をAIが別の何かに見立て、その解釈を受けて、また新しい影をつくる。偶然に転がったボールが音楽を変えてしまう。そこでは、最初に完成形を思い描き、それに向かって自分の手だけで何かをつくるという、一般的な「制作」のイメージが少しずつ揺らいでいく。いったい、ここで「つくっている」のは誰なのだろう?
──「みかん」が意味するもの
まず言及したいのが、「みかんのやくそく」という少し不思議な展覧会タイトルだ。
公式の展覧会ステートメントによれば、「みかん」には、まだ完成していないもの、これから誰かへ手渡されていくもの、参加するたびに少しずつかたちを変えていくもの、という「未完」の意味が込められているという。そして「やくそく」とは、コンピュータをはじめとするメディア・テクノロジーが本来約束していたはずの、「誰もがつくり、考え、とらえ返すことのできる環境」への問いを指している。
取材時にも、この「約束」について興味深い説明があった。コンピュータが登場した当初、それは計算を行うためだけの機械ではなく、誰もが何かを生み出すことのできるメディアになり得るものとして考えられていた。しかし、現在では学校でも日常生活でもコンピュータを使うことが当たり前になったいっぽう、それを「ものをつくるためのメディア」として十分に使っているかといえば、必ずしもそうではない。だからこそ、AIやAR、3Dプリンターなどが身近になった現在の環境でもう一度、「誰もがつくることができる」という約束を考え直してみる──そうした趣旨が企画側から語られた。

ここで重要なのは、テクノロジーを便利な「道具」としてのみ考えていないことだろう。公式ステートメントでも、今日のメディア・テクノロジーを「ときに応答し、予想外の結果を返す関係性」としてとらえることで、「誰がつくるのか」「表現はどこから生まれるのか」という問いを開くことが、本展のテーマとして示されている。その考えは、会場に並ぶ5つの作品を体験していくと、しだいに実感を伴って見えてくる。
──身体を使って、バーチャルな「みかん」を育てる
Circuit Lab. a team of UNIBAによる《みかんのき》は、専用のデバイスを手に展示空間を歩き回り、自分だけの「みかんの実」をつくるというもの。デバイス越しに周囲を見ると、会場にあるさまざまなものの表面がデジタルな「点群」として取り込まれ、みかんの表面へと反映されていく。見ている上下左右の方向と色が連動し、その集積によってひとつのみかんが形づくられる仕組みだ。

取材時の説明では、「塗り絵」のようなものと表現されていた。だが、上側を見たければ上を覗き込み、裏側を見たければ身体を動かして回り込む。身体の姿勢と、バーチャルな物体を見る視点とが連動し、実在しない物体を見ているにもかかわらず、身体は「そこにものがある」ように振る舞い始める。デジタル技術はしばしば、身体を画面の前に固定するものと考えられる。スマートフォンやタブレットに親しんでいる子どもたちにとっても、デバイスとの関係は「見る」「触る」に偏りがちだ。本作では逆に、デジタルな物体をとらえるために、覗き込み、回り込み、身体そのものを動かす必要がある。デバイスを手にしているのに、注意は画面のなかだけでなく、自分の姿勢や周囲の空間へと開かれていく。その感覚は、子どもにとっても新鮮なのではないかと思った。
さらに、つくられたみかんには完成した色や形だけでなく、それが生まれるまでの時間やプロセスも保存される。そしてみかんは、もうひとつのICCであるバーチャル空間「ハイパーICC」へ移動し、それぞれの特徴を持った「みかんの木」へと成長する。誰かがつくった木が、次の誰かのみかんを生み出すきっかけにもなるという。会場のギャラリーAで起きている出来事は「ハイパーICC」に反映され、実空間と情報空間はつながっている。ひとりで何かをつくって完成させるというよりも、自分がしたことが別の場所へ運ばれ、誰かの次の創作へつながっていく循環は、「作品をつくる」というより、「生態系に参加する」といったほうが近いのかもしれない。
──「止まってください」ではなく、「動いてください」
身体とデジタルデータとの関係を、さらに直接的に体験できるのが、堀宏行による《みちのからだ》だ。撮影ブースのなかで身体を動かすと、その軌跡が、時間を含んだ「みち(跡)」として記録される。そして身体が通ってきた「みち」のかたまりから、3Dのかたちが生まれる。「みち」という言葉には、身体が移動した「道」や「跡」であると同時に、見慣れているはずの自分の身体が、データへ変換されることで「未知」のものに見えてくる、という意味も重ねられている。
取材中に印象的だったのが、体験者に向けられた「動いてください」という言葉だった。
スタッフも「写真を撮るときなら、普通は『止まって』と言うけれど、今回は逆」と語る。しゃがむ。身体を伸ばす。手を振る。くるりと向きを変える。私たちの身体は毎日膨大な動きをしているが、そのほとんどは一瞬で消えていく。椅子から立ち上がって数歩歩く。その動きそのものが残ることはない。しかしここでは、消えるはずだった運動がデータになり、さらに立体的な「かたち」へ変わっていく。生成された3DモデルにはQRコードからアクセスすることができ、取材時には、そのデータを3Dプリンターで実際に出力したものも展示されていた。
3Dプリンターというと一般的にはコンピュータ上で設計した構造を立体物にする機械というイメージが強いが、本作において「設計図」となるのは、自分でも予測しきれない身体の運動だ。ただ動くことが結果的にまだ見たことのないかたちへとつながっていく。本展が扱う「つくる」という言葉の範囲が、ここでぐっと広がっていくように思えた。
──AIの「ずれ」から、次の創造が生まれる
生成AI時代の創造を直接的に考えさせられるのが、スコット・アレン(glow)による《Unreal Pareidolia -sandbox of shadows-》だ。「パレイドリア」とは、雲に動物の姿を見たり、壁の模様に人の顔を見つけたりするように、実際にはそこにない既知のイメージを、曖昧な形のなかに見出す心理現象を指す。
本作では、テーブルの上にある日用品や玩具などを組み合わせ、影をつくり、その影をAIが読み取り、何か別の像へと見立てる。AIが顕現させた像は再び影に重ね合わされ、それを見た人間がまた別の形をつくっていく。面白いのは、人間が思った通りにAIが認識するとは限らないという点で、たとえば、自分には動物に見えていても、AIはまったく見当違いの見方を示してくる。
しかし、「それは間違いだ」で終わらず、AIが予想外の答えを返してくると、「だったら、これはどうだろう」とかたちを変えてみたくなる。新しい影をつくると、またAIが解釈するという繰り返しだ。取材では、以前のバージョンではひとりの体験者とAIが向き合う構造だったが、今回は公園の「砂場」のように、不特定多数の人が一緒に参加できる場へ展開したことが説明された。
ある人には城に見えるものが、別の人には山に見えるかもしれないし、そこへAIによる異なる解釈が加わり、さらに複数の人間とAIの認識が重なり、次の創作が生まれていく。公式解説にも、この作品には「明確なゴール」がないとあるが、砂場を掘っては崩し、また積み上げるように何かを完成させることより、影をつくり続けるなかで現れた像が次の想像を呼び起こす。その往還自体が作品なのだろう。

この構造は、いま私たちが生成AIについて考えるうえでも示唆的ではないだろうか。生成AIをめぐる議論では、「AIが人間に代わって絵や文章をつくる」という構図が語られやすく、人間とAIは、ともすると創造の主導権を奪い合う競争相手のように描かれる。しかし本作でAIが示すのは「正解」ではなく、AIが人間とは違った見方をするからこそ、人間側の次のリアクションが生まれる。人間がつくり、AIが応答し、その応答を受けてまた人間がつくる。取材でも、そうした思考と制作の反復が続いていく構造として説明されていた。
AIの「ずれ」や予想外の解釈が次の創造の契機になる本作は、本展が掲げる「テクノロジーを、予想外の結果を返す関係性としてとらえる」という考えをもっともストレートに体現しているように見えた。
──偶然を受け入れながら、音楽をつくる
metamuによる《Ambient Music Sequencer》でも、自分の意図だけでは決まらない創造のあり方が提示される。会場に置かれたオレンジ色のボールを置いたり、転がしたり、集めたり、崩したりすると、その位置や動きによって音が変化し、作家はこれを「設置楽器」と呼ぶ。ボールをどこに置き、どのように動かすかによって音はそのつど異なるかたちで現れ、体験者は自分の行為と偶然が重なり合うなかで、アンビエントな音楽をつくっていく。

さらに中央のテーブルでは、各色に対応した音が「どこから聞こえてくるのか」という定位を操作することもできる。実際に触ってみると、最初は何が起きているのかを理解するのが少し難しく、しだいに「こちらから聞こえていた音が移動した」「この音が近くなった」といったことに気づき始める。いっぽう、近くで遊んでいた子どもたちは、そんな仕組みを理解しようとするより先に、ボールを動かし、音の変化を楽しみながら、長い時間そこにとどまっていた。考えてから操作するのではなく、まず動かし、聞き、また動かす。その直感的な音との戯れ方を見ていると、むしろそれこそが、この作品の素直な体験の仕方なのだと気づかされる。
自分が完全にコントロールした音楽をつくるというより、自分の行為とシステムと偶然のあいだに生まれる出来事に耳を傾ける。そこにも、「自分ひとりがつくる」という考えから少し距離を取る、本展の姿勢が表れているように感じた。
──「見る」ために、「聞く」
「ひかりのなかの音」は、AR Audio Guide チーム(glow)による音声MR(ミクスト・リアリティ)の体験だ。ムービングライトによって空間に現れる光と、イヤホンから聞こえてくる声に導かれながら展示室内を歩く。音声は作品解説だけではなく、自分と作品、そして展示空間の関係をとらえ直すための問いや視点を投げかける役割も持つ。

ARというと一般的に、スマートフォンの画面越しに現実空間へCGなどを重ねるものを想像しやすいが、ここで重ねられるのは音。同じ展示室の同じ場所に立っていても、装置を身につけた人には、目の前の現実とは別の音のレイヤーが加わる。
glowは前年の「ICC キッズ・プログラム 2025」でもAR Audio Guideを提供している。IAMASに掲載されたレポートでは、スマートフォンを首からかけて回遊するだけで体験できることや、現実空間の音とARによる音声が、鑑賞者が強く意識しないまま重なり合っていく点が評価されていた。今年の「ひかりのなかの音」でも、機器を操作すること自体が目的ではなく、歩き、立ち止まり、光を見て、声を聞き、視点を変えるという一連の行為が促される。普段の鑑賞でも行っている身体的な行為に、テクノロジーによる小さな介入が加わることで、それまでとは異なる作品や空間の関係が立ち上がってくる。「新しいテクノロジーを体験している」というよりは、テクノロジーによって自分自身の「見る」という行為が少しずつ組み替えられていくような感覚を得ることができた。
──「上手につくる」から離れてみる
5つの作品を体験して、個人的にもっとも印象に残ったのは、どの作品にも「上手につくる」ことを求められないという点だった。きれいなみかんをつくらなくてもいいし、美しく身体を動かす必要もないし、AIに自分の意図を正確に理解させなくてもいいし、音楽的に正しい旋律をつくる必要もない。取材の最後に、企画側から「自分が何かをして、それが何かの結果につながることを大切にしている」という説明があった。それはとても単純に聞こえるが、生成AIをはじめとするテクノロジーが日常生活へ入り込んでいる現在、その単純な構造はかえって重要になっているのではないか。 撮影:冨田了平
写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]
AIに言葉を入力すれば、適切で隙のない回答が得られる。それは便利であるいっぽう、そこで人間の行為が「指示を出して、結果を受け取る」という一往復だけで終わってしまうこともあるだろう。本展の作品は、そうした一方向的な関係とは一線を画し、その往復のなかにこそ「つくる」があるのではないか、と問いかけているように見える。公式ステートメントには、来場者の経験は記録として蓄積され、未来へ接続されていくとあり、展示空間もまた、完成した作品が並ぶ固定された場所ではなく、人々が関与することで変化し続ける「メディア・クリエイションズ」の現場だと位置づけられている。
「みかん=未完」というタイトルに、もう一度戻ろう。作品が未完成だから来場者が完成させる、という単純な意味ではなく、そもそも完成を目指していないのだ。AIが予想外の答えを返せば変わる。偶然ボールが転がれば音が変わる。会場で生まれたものが「ハイパーICC」へ移動し、別の誰かの創作につながっていく。「つくる」という行為そのものが、ひとりの人間の手のなかで完結するものではなくなる。それはAIに対峙する現在の私たちの状況とも重なって見える。
これから必要になるのは、テクノロジーが返してきたものを、そのまま答えとして受け取るのではなく、もう一度こちらから働きかけること。誰かが用意した完成した世界を受け取るだけではなく、テクノロジーとの関係そのものを何度でもつくり直すことだ。「ICC キッズ・プログラム」の枠組みではあるが、本展が投げかける問いは、大人にとっても切実だろう。「誰がつくるのか」。その答えをひとつに決めないことこそ、この展覧会が未来へ残している「未完」の約束なのではないだろうか。