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岐阜おおがきビエンナーレ2019「メディア技術がもたらす公共圏」—「展覧会」から見えたこと

城一裕(九州大学芸術工学研究院准教授)

2019年12月5日(木)から8日(日)にかけて,岐阜おおがきビエンナーレ2019「メディア技術がもたらす公共圏」が,IAMASギャラリーを中心に開催された.第8回目の開催となる今回のビエンナーレでは,公共圏=”誰もがアクセスしうると同時に,複数の価値や意見の<間>に生成し,人々の間に生起する出来事への関心に基づく,差異を前提とする空間”,という定義のもと,公共圏としての制作環境に注目し,”機械との協働によりアーティストの創造的行為をアーカイブし、次の創作への活用モデルを示すこと、設計者、制作者、使用者による協働的デザイン環境の提案を中心に、制作環境の現在形を考えます。”(岐阜おおがきビエンナーレ2019 開催趣旨より)として,シンポジウム,関連作品,資料の展示を通じた,様々な制作環境の開示がおこなわれた.

このレポートでは,今回のディレクターである伊村靖子が,2011年に企画した展覧会「共創のかたち〜デジタルファブリケーション時代の創造力」を参照しつつ,Action Design Research Project《協働的デザイン環境のプロトタイピング》での,デジタルファブリケーションの普及を踏まえた制作環境の捉えなおし,およびArchival Archetyping Project《AIとの共創による創造性の拡張》でも示されていた,公共圏としての人工知能の拓く可能性,を中心に,岐阜おおがきビエンナーレを概観していきたい.

「共創のかたち〜デジタルファブリケーション時代の創造力」は,2011年10月1日(土)〜11月13日(日)にかけて,京都市立芸術大学ギャラリー・@KUAで開催された展覧会である.当時京都市立芸術大学に在籍していた伊村と,学芸員の森山貴之によって企画された本展では,”共創は可能か?”という問いのもと,当時のものづくりの環境における,デザイナー・アーティストの役割を,工学の立場からの研究を含む,サービス,作品,製品,制度,という様々な事例の紹介を通じて検討していた.

なお本展が開催された2011年は,東日本大震災の影響が色濃く残る中(ただし,本展覧会のテキストにはDIY(Do It Yourself)の始まりが戦災復興を目的としたイギリスの市民運動だ,という記述はあるものの,震災そのもへの言及は殆どない.),多様な工作機械を備え「ほぼあらゆるもの(“almost everything”)」をつくることを目標とした「ファブラボ」が,東アジアで初めて鎌倉とつくばに誕生した年であり,それまでの工学系の大学だけでなく,デザイナーやアーティストを育む場に,デジタル工作機械が整えられていくというように(代表的な例としては,慶應義塾大学SFC,多摩美術大学情報デザイン学科,東京藝術大学芸術情報センターなど.また,IAMASでは2009年3月に日本国内ではいち早く,それらの機器を備えた”制作環境”としてのプロトタイピングラボを開設している.),いわばデジタルファブリケーションの黎明期と位置づけることができる年である.

この展覧会では,共創の持つ2つの側面として,大量生産を始めとした従来のシステムへの批判と,オープンソース・デザインに見られる個人の参加,の存在が指摘されるとともに,表現を通じた技術の再構成という美術におけるデジタルファブリケーションの可能性が示されていた(*伊村靖子,汎用技術と表現-美術において「デザイン=設計」が意味するもの,「共創のかたち〜デジタルファブリケーション時代の創造力」カタログ,p.56-61, 2011).また,会期中に実施されたパネル・ディスカッションでは,目新しさに回収されないデジタルファブリケーションの価値と,個人に依拠する専門性,の検討の必要性が論じられるとともに(2011年10月8日「デジタルファブリケーションの未来像」),デジタル工作機械が普及した際に,作品を規定するのはデジタルデータなのか,それとも出力された物質なのか,という問について議論がかわされた(2011年10月22日「共創のかたちと表現の行方」).

個人的な追憶になるが,当時東京藝術大学芸術情報センターにおいて,まさにデジタル工作機械の導入に携わり,その作品制作への活用を検討していた自分にとっても,この展覧会で取り上げられていたトピックは他人事ではなかった.ともすると初期のインターネットと同様の牧歌的な雰囲気の中(とはいえ,震災の影響はたしかにあった),FabSchoolTokyoという公開講座(「自由に自分自身を表現するための手段」としての「パーソナルファブリケーション」をともに学ぶ場として,ゲスト講師に,FabLabJapanの発起人の田中浩也(慶応SFC),久保田晃弘(多摩美術大学)を招き,3ヶ月に渡って実施.報告会まとめ)を開催する傍ら,現在の自らの活動にもつながる,レーザーカッターを使ったレコード制作に着手し始めていた.

その翌年2012年にはIAMASに着任し,このレコードづくりに本格的に取り組むことになる.その成果は,”情報と物質とそのあいだ”をテーマとして,2013年から2015年にかけて開催されていた企画展”マテリアライジング展”での,ライブ・パフォーマンス(2013, 2015)や作品展示(2014, 2015),NTT ICCでのIAMAS車輪の再発明プロジェクト展(2015)を中心に,次第に制作環境を取り巻く現実の厳しさも垣間見える中,まさに”表現を通じた技術の再構成”の試みとして提示している.

以下に,当時の記録として,2015年のマテリアライジング展(なお会場は,「共創のかたち」展と同じ,京都市立芸術大学ギャラリー・@KCUA)への出展時に記したエッセイから,情報(データ)の物質化に伴う,思索の過程を示しておく(なお,この後最終的な解法は見出された).
”他方,今回の出展作品では,電子音として聴こえる音を電気の力を借りずに奏でるべく,電気的な増幅なしに機械的に音を拡声する蓄音器を用いることとした.結果,これまでに使用してきたほぼすべての素材(マテリアル)は,その針圧(レコード・プレイヤーが数g程度であるのに対して,蓄音器は100g以上)に耐えることが出来ず,針と素材の表面との摩擦によって動きが止まってしまうということとなった.現段階(5月初頭)では,まだ最終的な解法(マテリアライジング?)を見出だせていないのだが,情報を物質化する道筋の選択に,恣意性ではなく必然性をもたらしてくれるこの制約を,いまは肯定的に受け止めている.”(城一裕,essay: 情報と物質とそのあいだ,« mtrlzng Ⅲ »,2015 より抜粋)

この例にとどまらず「マテリアライジング」展では,領域を横断しながら,情報と物質の関係性.その多様性と固有性,芸術と技術の現在性を明らかにする事を目指し,様々な背景を持つ作家・研究者を,美術展という一つの文化的平面に並置することで,”美術におけるデジタルファブリケーションの可能性”を多様な形で示していた.


Action Design Research Project展示風景

他方,今回のビエンナーレにおいて,Action Design Research Project代表の赤羽亨と伊村が記していた,
”個人によるものづくりの可能性が開拓されたものの,従来の産業技術との併用可能性やデザイン・プロセスの開示によるデザイン批評としての側面は,十分に検討されているとは言えません.”
というステートメントは,まさに「共創のかたち」展の異なる側面を継承するものであった.展示においても,例えば《Lean Deskの制作》での藤工芸とIAMAS双方により制作された一つのデータに基づく2つのテーブルの併置,に見られたように,理想と現実の双方を踏まえた現在だからこそ出来る,ある種愚直とも言える形で,データと物質それぞれの特性を踏まえた上での,デジタルファブリケーションの可能性と問題点とを提示していた.また,シンポジウム「ソーシャル・ファブリケーションとメディア技術」で示された秋吉浩気(VUILD株式会社)による,中山間地域への木工用大型CNC Shopbotの導入による半径10km圏内で完結する「小さな経済圏」の提案とその証左としての《まれびとの家》は,もはや目新しいとは言えないデジタル工作機械を踏まえた一つの”公共圏”のあり方を指し示すものであり,と当時に,その黎明期からShopbotの普及に関わってきた秋吉だからこそ出来る,制作環境自体の制作という,個人に依拠する別種の専門性,の存在を示唆するものでもあった.

一方,Archival Archetyping Projectによる《AIとの共創による創造性の拡張》では,人と人工知能が共に進化することで拓かれる可能性を垣間見せる幾つかの試みが提示されていた.人工知能(AI)は,プロジェクト代表の小林茂が記しているように,”往々にして人と対比され,しばしば人の仕事を奪う危険な存在と見做され”ることがある.しかし,実際には,今回の招待作品を出展したQosmo代表の徳井直生が手掛ける《AI DJ Project》(2016〜)への共演者のコメント”選曲は超一流だけど,プレイはDJ始めたばかりの中学生みたい”が指し示すように,少なくも現時点でのAIは決して人を凌駕するような存在ではない.


Archival Archetyping Project展示風景

いみじくもプロジェクトメンバーの松井茂が,”実のことを言えば「pix2pix」や人工知能が「創造的行為」を見出すために必須であったのかはまだわからない.今回のケースはただ迂遠な営みであったのかもしれない.しかし,クワクボの《10番目の感傷(点・線・面)》の「創造的行為」の一部(ほぼ無意識に含まれるプロセス)を記述するために,《モランディの部屋》は必要であったし,「創造的行為」とは,膨大なテクストの引用から構成されていることはいうまでもない.(松井茂,《モランディの部屋》はクワクボリョウタのアトリエにあるー行為遂行性の記録体,会場配布テキスト,2019)”
と,記しているように,また”AIDJを見て初めて,人間のDJの凄さがわかりました”という聴衆からのコメントが端的に示しているように,人と対峙することで,ともすると無意識的に見過ごされていた人の創造性を顕在化させる人工知能は,人とその創造的行為との〈間〉に生成する”公共圏”と捉えることができるのかもしれない.

今回のビエンナーレは,展示にて機械学習を用いてその分析が試みられた「あいちトリエンナーレ2019」の例を出すまでもなく,様々な論点による分断が日常となっている現在において,つくり手と受け手,人間と機械,との関係を,メディア技術がもたらす公共圏,という観点から改めて解きほぐそうとするものであった.創設以来「(メディア)アートの学校」として,未来の社会での生き方を学び続けてきたIAMASが,もはや牧歌的とは言い難い,でも未だgoogleやFacebookは登場していない(と思える),現在の制作環境を取り巻く状況の中,公共圏としての制作環境を今後どのように育んでいくのか,例えば,人と機械にとどまらず,人にあらざる生き物をも含める(笑)可能性もあるのか,そのようなことを期待しつつ,2年後のビエンナーレを楽しみにしたい.