EN
Follow us
twitter facebook
資料請求

つくり手・受け手のメディア意識の変容から80年代を考える——共同研究「マス・メディアの中の芸術家像」第2回研究会レポート

伊村靖子(情報科学芸術大学院大学 講師)

2019年7月14日から15日にかけて、国際日本文化研究センター(日文研)にて、共同研究会「マスメディアの中の芸術家像」第2回目が開催された。この研究会では、テレビがほぼ100%普及した1968年からインターネット元年と言われる1995年までをひとつの時代区分と捉え、オールド・メディア成熟期に生まれた新たな芸術家像の特徴を描き出そうとしている。その研究手法の一環として、前回の坂本龍一へのインタビュー「1984・1985の東京での活動をめぐって」を受ける形で、第2回目の研究会が構成された。
1日目の基調講演は、川崎弘二の「1984・85年の坂本龍一のメディア・パフォーマンス」、松井茂の「出版のパフォーマンス 坂本龍一の音楽外的思考/磯崎新の建築外的思考」。2日目は、長嶌寛幸の「機材テクノロジーの変遷から考察する sync と async」、佐藤知久「ポストモダニズム、あるいは資本主義リアリズムの予兆としての1980年代中期について」。これらの発表を通じて重層的に見えてきたことがらについて、事後に考えたことも含めて報告することとする。

 

メディア・パフォーマンスとは何か

マスメディアの中の芸術家像を考えるうえで、私が興味を持つのは、作品はもとより、作家や鑑賞者のメディア意識の変化である。このことと関連して思い起こすのは、同時期の西武・セゾングループが広告や出版、文化事業によるイメージ戦略を通して、コーポレート・アイデンディディを作り上げたことだ。デザインの社会的な機能が注目されただけでなく、それまで一括りにされていた「大衆」が自ら共感するメディアを選び、分化していった。堤清二の言葉を借りれば、「消費の過程のなかに、個性を復活させる」ということになるだろうが、消費と呼ぶには能動的な受容スタイルが生まれつつあったのではないか。それを象徴するのが、1984〜85年にかけて相次いで発表された「分衆」論だ(藤岡和賀夫『さよなら、大衆』PHP研究所、博報堂生活総合研究所『「分衆」の誕生』日本経済新聞社、山崎正和『柔らかい個人主義の時代』中央公論社)。音楽の受容に関しても同じような状況が生まれていたはずで、だからこそ新しいメディアを作ることが新しい鑑賞者を作ることを意味していたのではないだろうか。

その意味で、川崎弘二が、坂本龍一による個人出版社「本本堂」の書籍とカセットブックの関連記事を丁寧に辿りながら、出版メディアを通じた活動をメディア・パフォーマンスとして読み込んだのは示唆深かった。川崎は、『宝島』(1984年1月)所収のインタビューから、坂本が当時ミニコミ的なメディアに興味をもっていなかったことに触れ、本をパフォーマンスの媒体と捉えることへの関心——高橋悠治と坂本が石垣島の旅館に泊まり、別々の部屋から長電話した会話を収めた『長電話』や、何も書かれていない本の出版、その本の表紙を渋谷のパルコに貼っていくパフォーマンスを紹介した。興味深いのは、一般流通に乗るメディアを前提としながらそれを編集的視点で捉え直し、パフォーマンスとして展開した点だ。なかでも、「ニューアカ(ニューアカデミズム)」と軌を一にしたと思われる「週刊本」(1984年〜85年にかけて出版された朝日出版社のシリーズ本。単行本でありながら週刊のように次々刊行されることをコンセプトとした新たな出版形式を模索)から刊行された『本本堂未刊行図書目録』は、未発表の図書目録という形式によって見事に「週刊本」を脱構築してみせた。
一方、カセット・ブックは出版社が発行することにより、レコード制作基準倫理委員会の管轄外となることから、自由なメディアとして注目を集めていた。その先駆けとして、国内初のカセットマガジン『TRA』1号(TRA Project、1982年夏)などが挙げられ、本本堂からは『Avec Piano』(1983年6月)が音楽の世界観を伝える新しいパッケージとして発表された。これらの出版物は、アールヴィヴァンやWAVEなど一部の書店やレコード店を介して都市部を中心に流通しただけでなく、洋書・洋楽を含めたセレクトのもとで供給され、音楽を受容することがライフスタイルの選択と結びつき、クラスターを生み出したことが想像できる。メディア・パフォーマンスの背景に、インターネット以前のメディア流通の変遷を読み込んでいく必要があるだろう。

資本主義を脱コード化する、出版のパフォーマンス

松井茂は、80年代の文化シーンの中に「ニューアカ」「ポストモダン」への関心のありようを探ることにより、ハル・フォスターが『反美学 ポストモダンの諸相』(1983年、邦訳は1987年)で述べた「抵抗のポストモダニズム」の延長上に、マスメディアの中の芸術家像を描き出そうとした。その背景として、松井は、浅田彰が『構造と力―記号論を超えて』(1983年9月)を出版した当初、「全共闘世代が主体主義的・疎外論的な隘路に入ってしまったあと、いかに風通しのいい開かれた場所に出て行くか」を考えていたことに注目した。浅田は「全共闘的イデオロギーを切断することのほうが緊急の課題」との判断から、「資本主義を全否定して閉じたコミューンに回帰するより、資本主義のダイナミズムをある意味で肯定し、さらに多様化する方向で考えるべき」という立場をとった(『ゲンロン』4(2016年11月)のインタビュー「マルクスから(ゴルバチョフを経て)カントへ 戦後啓蒙の果てに」(聞き手:東浩紀)、69頁)。『構造と力』は発売から数週間で8万部売れ、浅田は週刊誌や新聞に時代の寵児として取り沙汰され、『朝日新聞』(1984年1月23日)に「ニューアカデミズム」という言葉が登場する。それと同時に、浅田の目指した方向性は知の消費になりうるとの批判を浴びた(柄谷行人、マリリン・アイヴィ)。先に挙げた「抵抗のポストモダニズム」とは、浅田の目指した方向性でもある。柄谷行人の言葉を借りれば、「モダニズムを脱構築し、現状に抵抗しようとしているポストモダニズム」を指す。それは、「モダニズムを拒絶し現状を讃えるポストモダニズム」、つまり新保守主義、新自由主義との差別化を図るものでもあった(柄谷行人「批評とポスト・モダン」『海燕』1984年11月,12月)。ポストモダニズムをポピュリズムとして支持するか否かが争点となっていたのである。ここから見えてくるのは世代の問題ではなく、全共闘的イデオロギーを切断するための思想の更新を求める意識の差異が、クラスターを生み出したということだ。

加えて、当時を回想した書籍として、松井は、香山リカ『ポケットは80年代がいっぱい』(バジリコ、2008年2月)、佐々木敦『ニッポンの思想』(講談社現代新書、2009年7月)、赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書、2014年5月)を参照しながら、各々が「ニューアカ」現象をどのように受け止めていたかを分析した。現象のただ中にいた香山、佐々木と、距離を置きながら観察していた赤坂の立場は異なるものの、「狭量で排他的でマニアック」(香山)、「ひと世代上の「政治の季節」男子たちが、他人をけむにまく勢いで「政治」を語ったのと、同じ感じ」(赤坂)という共通する側面が見えてくるのも興味深い。「ニューアカ」の挫折の検証とモダニズムを脱構築しようとした歴史観の再読が、今後のテーマとして浮かび上がってきた。

制作環境の変遷が音楽シーンを創り出す

2日目に、長嶌寛幸は、「すべてのものを非同期にしたい」という坂本龍一の言葉を引用しながら、クラフトワークと坂本龍一、YMOの使用機材の比較から機材テクノロジーの変遷を考察した。新しい音が新しい耳(聴衆)をつくるのは常だが、こと70年代後半から80年代半ばにかけてのシーケンサーとリズムマシンの変遷は、短期間のうちにつくり手たちを刺激し、しのぎを削るシーンを作り出し、音楽を全く違う次元のものに変えていったのではないかと想像した。その鍵となるのが同期/非同期であり、人の手による演奏とシーケンサーとリズムマシンが創り出す独特のグルーヴ感ではないかという長嶌の読みが、実際の音源とともに示された。具体的には、RolandのMC-8とTR-808と演奏者のグルーヴの3つが存在するというのが長嶌の持論であった。
当時は、どのようにレコーディングしていたかという情報が互いに全く入らず、音源から推測されるのみだったという。クラフトワークのようにリズムマシンやシンセサイザーを導入しつつもかなりの部分を手による機械風の演奏に負うバンドもあれば、ドナ・サマー+ジョルジオ・モロダーの「I feel Love」が成し遂げたように、アナログシーケンサーのシンクロした多重録音とドラマーの演奏が生み出したグルーヴ感もある。その音やリズムの微妙な差異を聴くこと自体が、作曲者たちにとってある種の挑戦になっていたに違いない。作曲者がつくり手でもあり受け手でもある状態が、音楽シーンを活性化したのではないか。

制作環境の変遷で興味深かったのは、MC-8(1977)に次いでMC-4が1981年に発売されたことにより、それまではエンジニアが音の作り方や録音を含めたシンセサイザーの技術を握っていた状態から作曲者自身が操作できるようになり、制作スキームが変化したという点だ。つまり、それまでの音楽性に深く関わっていたKraftwerkとコニー・プランク、YMOと松武秀樹、あるいは武満徹と奥山重之介のような作曲者とエンジニアの関係が、機材テクノロジーによって変わっていったことを意味している。また、DAW (Digital audio workstation)をはじめとする音楽の視覚化の中に、クリックが要素として規格化されていく。70年代後半から80年代半ばが過渡期だとするならば、新しい耳をつくる実験を経て、作曲者の職能が変化しつつあったと推測したら大胆過ぎるだろうか。

 

「ニューアカ」の呪縛とは何だったのか

佐藤知久は、自身も学問を始める時点で「ニューアカ」の洗礼を受けた当事者であることを認めつつ、浅田彰の出版のパフォーマンスを読み解いた。松井が1日目に香山リカを参照しながら「ニューアカ」現象をポジティヴに読む糸口を探したのに対し、佐藤はネガティヴな側面として、構築的な学者のスタイルをシニカルに批評し、いなした点を振り返った。奇しくも赤坂真理が皮肉交じりに述べた「男子たちが、やがてポストモダンのぜんぜんわかんない内輪言語【ジャーゴン】で話しはじめた」という一節さながら、浅田のエピゴーネンたちが互いを痛烈に批判しあう不毛な土壌があったことも率直に伝えた。それほど、「ニューアカ」旋風が巻き起こっていたことが想像できる。

浅田が向き合ってきた時代を思想史の中で捉える時、1日目に話題となった「全共闘的イデオロギー」に加え、「部分的社会工学」も仮想敵として挙げられた。70年代にはフーコー、デリダ、アルチュセール、ヴィトゲンシュタインの翻訳が刊行されたが、中高生の浅田はアルチュセール、ヴィトゲンシュタインに惹かれていたという。佐藤は、とりわけアルチュセールとの出会い、構造的因果性への関心が、日本のポストモダニズムの原点と言えるのではないかという見解を示した。「資本主義のダイナミズムを半ば肯定しつつ、さらにそれを超えたユートピアを大胆に描いてみせる」ために浅田が参照したのは、ドゥルーズとガタリであった(「『構造と力』刊行30周年インタビュー」『朝日新聞』2013年3月26日夕刊、REALKYOTOに全文掲載(http://realkyoto.jp/blog/kozotochikara/)。

マスメディアの中の思想家像の実践として、佐藤は、浅田の雑誌、テレビでの編集者としての手腕に注目した。その中でも、思想、政治、芸術、技術などの雑多なテーマを横断し、週刊誌のような安価な紙質で凝ったレイアウトの誌面で構成された『GS たのしい知識』(1984年6月〜1988年9月)、1985年9月15日に筑波万博で「ジャンボトロン」を使用して行われたライブパフォーマンス「TVEV LIVE: TV WAR」(坂本龍一、浅田彰、ラディカルTV)にラディカルさを読み取った。しかしながら、こうした実践的な知やポストモダニズムの余波がその後のアカデミズムや芸術にどのような影響を及ぼすことになったのかは、引き続き考えていくべき課題であろう。